特別な職業やメディアに登場するスターのようなキャラクターしか尊敬の対象にできないような・普通の職業の人やクラスメートには軽蔑に近い印象をデフォルトで抱いているような、そういう境地の人達が、まだまだ世の中には存在する。 この自称精神科医は目にした現象を徒に「問題だ問題だ」と叫ぶだけでそれを考察するということが全くない。ものを考えるということがない。知性が全く感じられない。例えば、昔は乃木将軍など教科書に出てくる偉人を理想像とするのはごく一般的なことであったが、だからといって別に「普通の職業の人やクラスメートには軽蔑に近い印象をデフォルトで抱いているような」ことはなかったにも拘らず、何故このエントリにおける「特別な職業やメディアに登場するスターのようなキャラクターしか尊敬の対象にできないような」連中は「尊敬の対象」以外の存在を無闇矢鱈と「軽蔑」するのか、あるいは5代前から東大出身者ばかりの家系
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空を見上げると春霞といったようす。春だなと思う。昨日、村上宣寛氏の書籍の紹介で親の育児態度の影響は子の性格にはあまり関係ないというよく知られた話に触れたが、そうはいっても人間の個人の自身の性格の理解は物語の構造を取るもので、過去の事件や親子の関係がそれなりに物語化されている。それを脱構築というか解体することは、それほど容易なことではない。ふと思ったのだが、恋愛や結婚の関係、あるいは長い職場関係もそうか、こうした比較的長期に及ぶ関係もその理解は一つの物語の形を取るのだろう。そして、多少なり、世界や自分を客観視できる人ならあるいはそういう客観視をせざるを得ない人なら物語性のもつ胡散臭さを直感している。あるいは。誰にもそうした直感はあり、物語を強化する必要---感情的な必要---があって、そこから物語の希求が起こり、実は「正義」や「他者の排除」ということはその物語の要請から起きるのかもしれない。
2006年03月15日16:24 カテゴリ書評/画評/品評 平凡は強し、非凡は弱し 寄生獣のクリップが絶妙だったのでTB。 七夕の国 寄生獣 岩明均 (ネタバレ注意) そんなnewsは犬も喰わない: ブログ界隈を震撼させている例の件についての雑感今あげた4名の方々なんかはきっと社会がどうなっても、どんな状況に突っ込まれてもちゃんと自分一人は守りきれるし、身内のこともフォローできるだけの能力があるんでしょう。というか確実にあるな、その能力は。だからつい他人にもそういう能力があると思ってしまうし、彼らが出来ることをなぜ他の人間はしないのか?するべきじゃないのか?ヤレよテメーラ!って言いたくなるんだろうな。 個人個人であれば、そういう能力というの「ない」かも知れない。しかし社会全体としてはどうか。 個としての人はパラサイトの前に無力だが、パラサイトは「社会の人々」の前に無力だったではないか。「田
物語における「アニキの死」について 以下は、言うまでもないが、ジャンプでの「あのマンガ」を意識してのエッセイだ。連載時のマンガについてあまりネタバレはしたくないので、一般論として読めるように書いた。直接には引用しない。ジャンプ嫁。 父親殺しとアニキの死 物語や神話の基本テンプレには「父親殺し」という重要なテーマがある。 このテーマを基本にして、フロイトは「無意識」の存在を語った。父親を倒して、父親の所有する社会権利を(象徴としては「母」を)奪いたい、という人間の無意識願望があるぜ、というストーリだ。 エヴァンゲリオンやらスターウォーズやら、このテーマに沿って構成された傑作の物語は数多い。 フロイトが取り上げた「父殺し」に比べると注目されることが少ないが、それに匹敵するレベルで「アニキの死」という大きなテーマがある。このテーマも、数かすの名作を生み出している。 「アニキと俺」の物語 父親
国母の件について。 この話ってつまるところ、「公の場にはどんな服装が好ましいか?」という個人の価値観に集約されるのよね。で、個人の価値観故に人それぞれバラバラであり、それぞれが正しさを主張する。それぞれに正しいとすべき理由があり、その理由が正しければ、服装に対する結論=国母の服装アリナシも自動的に正しい。 なんなんだ、このバカわ!? 「公の場」における「価値観」は「公」が決めるのだ。「バラバラ」なものから「どんな服装が好ましいか」を決めることなど不可能に決まっているではないか。「自動的に正しい」か否かは、あくまでも「個人の価値観」においての話に過ぎず、それをさておいた上で「公の場」にふさわしいと定められたもののみが「公の場」では「正しい」のだ。 これこそ個性尊重主義に毒された「世界にひとつだけの花」症候群罹患者の戯言である。このバカの戯言は「公」を舐めきっていた国母と同じだ。仮にJOCだか
彼のことを、私と息子は博士と呼んだ。そして博士は息子を、ルートと呼んだ。 息子の頭のてっぺんが、ルート記号のように平らだったからだ。 「おお、なかなかこれは、賢い心が詰まっていそうだ」 髪がくしゃくしゃになるのも構わず頭を撫で回しながら、博士は言った。 友だちにからかわれるのを嫌がり、いつも帽子を被っていた息子は、警戒して首をすくめた。 「これを使えば、無限の数字にも、目に見えない数字にも、ちゃんとした身分を与えることができる」 彼は埃の積もった仕事机の隅に、人差し指でその形を書いた。 小川洋子『博士の愛した数式』
寝坊した。産経新聞一面の梅田さんのコラムが興味深いものだった。思索を深化させていくと逆に読む人が限定されていく。その限定を緩和させると、単純化・図式化が進む。しかたがないとは言える。ネットに掲載されているかと見るとあった(参照)。この問題視点は難しい。 これからのウェブ世界は、こうした欧米の価値観やイデオロギーに強く牽引(けんいん)された「共有地たるグローバルウェブ」(主に英語圏)と、「政治体制や文化・言語圏に閉ざされたローカルウェブ」がせめぎあい、分断されて林立する時代を迎えるのであろう。グーグル中国問題は、そんな21世紀のウェブ進化のひとつの方向性を示唆するものである。 私の考えでは、Google+英語がもたらすインパクトは、文化圏や政治体制のクローズにおけるダイコトミーとは完全に重ならない。私の思索のキーワード「滑らかな浸潤」をふと想起するが、そこまではわからない。ただ、Google
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