北九州市小倉北区の旦過市場一帯で10日夜に発生した今年2度目の大規模火災を巡り、インターネット上では出火を責めるような中傷や、臆測に基づく放火説などのデマが後を絶たない。「火元」と名指しするデマの標的となった飲食店経営の女性は「もう限界…」。焼けた店の対応に追われる中、心身ともに疲弊しきっている。 何か悪いことした? 「店の名前が『火元』としてネットに出てるよ」。...
北九州市小倉北区の旦過市場一帯で10日夜に発生した今年2度目の大規模火災を巡り、インターネット上では出火を責めるような中傷や、臆測に基づく放火説などのデマが後を絶たない。「火元」と名指しするデマの標的となった飲食店経営の女性は「もう限界…」。焼けた店の対応に追われる中、心身ともに疲弊しきっている。 何か悪いことした? 「店の名前が『火元』としてネットに出てるよ」。...
巌流島の戦いと言えば? 宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った――その流れの「一般常識」としては、ツバメ返しの達人・小次郎を、武蔵はわざと大幅に遅刻することで、じらして勝負を有利にし、船の櫂をけずった木刀で倒した――ことになっている。 ところが、これは史実からは大きく離れている、というのが最近の研究だ。 岩波新書「宮本武蔵」で国際武道大教授(日本思想史)の魚住孝至さんによると、一般常識の巌流島の戦いは、あくまで吉川英治の小説『宮本武蔵』の描写によって定着したものであるという。 一般的なイメージの巌流島の対決は小説だった吉川版の元ネタは、1776年に書かれた『二天記』がベース。 この年は、武蔵(1584?~1645年)が死んでなんと約130年も後であり、史料性は極めて低い。 では、もっと信憑性の高い史料はないのか? ある。 武蔵の死後9年目に、武蔵の養子となった宮本伊織が建立した顕彰碑「小倉碑文」だ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く