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巌流島の戦いでの遅刻も「たけぞう」の名も吉川英治が広めた話なり
巌流島の戦いと言えば? 宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った――その流れの「一般常識」としては、ツバメ返し... 巌流島の戦いと言えば? 宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った――その流れの「一般常識」としては、ツバメ返しの達人・小次郎を、武蔵はわざと大幅に遅刻することで、じらして勝負を有利にし、船の櫂をけずった木刀で倒した――ことになっている。 ところが、これは史実からは大きく離れている、というのが最近の研究だ。 岩波新書「宮本武蔵」で国際武道大教授(日本思想史)の魚住孝至さんによると、一般常識の巌流島の戦いは、あくまで吉川英治の小説『宮本武蔵』の描写によって定着したものであるという。 一般的なイメージの巌流島の対決は小説だった吉川版の元ネタは、1776年に書かれた『二天記』がベース。 この年は、武蔵(1584?~1645年)が死んでなんと約130年も後であり、史料性は極めて低い。 では、もっと信憑性の高い史料はないのか? ある。 武蔵の死後9年目に、武蔵の養子となった宮本伊織が建立した顕彰碑「小倉碑文」だ
2020/10/29 リンク