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戦争と土木に関するcinefukのブックマーク (4)

  • 山の中の海軍の町 にしき ひみつ基地ミュージアム(人吉海軍航空基地跡) | 観光スポット

    太平洋戦争末期、九州山地に囲まれた、海のない人吉盆地に建てられた「人吉海軍航空基地」。その跡地に作られたのが「ひみつ基地ミュージアム」です。 館内は資料館になっており、基地の歴史に関するパネルや隊員の遺品、零戦の残骸などを展示。なかでも、ガイド付で見学できる“地下魚雷調整場”は、総延長233.6mと、現存する地下施設の中で最大の規模を誇ります。そのほか、地下兵舎壕、地下作戦室・無線室が見学できるオプションツアーも人気です。 所在地 〒868-0301 熊県球磨郡錦町木上西2-107 電話番号 0966-28-8080 定休日 年末年始 利用料金 地下魚雷調整場ガイド付き入館料/ 大人(高校生以上)800円、小中学生500円、小学生未満は無料 利用可能時間 9:00 〜 16:00(7・8月〜17:00) アクセス情報 車/人吉ICから20分、福岡ICから人吉ICまで約2時間20分 駐車場

    山の中の海軍の町 にしき ひみつ基地ミュージアム(人吉海軍航空基地跡) | 観光スポット
    cinefuk
    cinefuk 2021/04/22
    人吉ICから車で20分か。行きたい『ガイド付で見学できる“地下魚雷調整場”は、総延長233.6mと、現存する地下施設の中で最大の規模を誇ります。地下兵舎壕、地下作戦室・無線室が見学できるオプションツアーも人気』
  • 明治の文楽「太夫」の墓か 筑紫野市で発見、旧日本軍が埋める? | 西日本新聞me

    福岡県筑紫野市の山中で明治期の文楽関係者とみられる「豊竹緑太夫」の墓石を地元住民が見つけた。この一帯は戦時中、旧日軍の拠点として接収され、墓石の多くは当時、軍が地中に埋めたという。放置され続けた太夫の墓石などが戦後75年を経て、地域住民の手で建て直され、25日に供養祭が開かれる。 見つかった墓石は高さ約1・8メートル。表には「豊竹緑太夫墓」、裏には「明治二十四年旧三月十八日 行年六十才」と刻まれている。緑色片岩とみられ、周辺にはないという。 数年前から地域で進めている公園整備のため、通路を作ろうとしたとき、地元住民の祖先の墓石とみられる高さ50~30センチの墓石があちこちに転がっていた。太夫の墓石はひときわ大きく、斜面にうつぶせに倒れたままで、人力で動かせなかったため、故人の名前までは分からなかった。 ところが今春、近くの元建設業石川栄次郎さん(76)が小型重機でこの墓石を持ち上げ、刻ま

    明治の文楽「太夫」の墓か 筑紫野市で発見、旧日本軍が埋める? | 西日本新聞me
    cinefuk
    cinefuk 2020/10/22
    "この一帯は第2次世界大戦中に旧日本軍が接収し、本土決戦に備えた作戦本部「西部軍」の司令部が置かれ、総延長約4キロの地下壕も設けられた。「縁起が悪いから、地縁者のいない墓たちは埋められたのだろう」"
  • 大本営陸軍部の地下ごう公開へ 東京・市ヶ谷 防衛省 | NHKニュース

    戦後75年の節目となることし、大営陸軍部が置かれていた東京・市ヶ谷にある地下ごうを防衛省が一般に公開することになりました。 この地下ごうは戦後、限定的に公開されていましたが、内部の老朽化とともに耐震性が問題となり、非公開となっていました。 その後、耐震工事は完了し、防衛省がこの地下ごうを一般に公開することになりました。 地下ごうは厚さおよそ1メートルのコンクリートで覆われ、地下およそ15メートルの位置にあります。3のトンネルで構成されて、広さは1300平方メートル余り、陸軍大臣の執務室やトイレなどの跡があり、およそ200人が生活できたという記録が防衛省に残されています。 外部から見つからないよう、通気口の地上部分は、石灯籠とつながっています。 防衛省は当初、来月1日に一般公開する予定でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、状況を見極めながら改めて公開日を決めることにしています。

    大本営陸軍部の地下ごう公開へ 東京・市ヶ谷 防衛省 | NHKニュース
    cinefuk
    cinefuk 2020/04/03
    『地下15mの #市ヶ谷 大本営地下壕は厚さ1mのコンクリートで覆われたトンネル3本で構成され広さは1300平米。陸軍大臣の執務室やトイレなどの跡があり、200人が生活できた。通気口の地上部分は、石灯籠にカモフラージュ』
  • トンネル工場跡公開 戦争末期、空襲避け魚雷生産 国連軍縮週間に合わせ

    太平洋戦争末期、軍需工場への空襲を避けるための「疎開工場」として建設され、魚雷を生産した三菱兵器住吉トンネル工場跡(長崎市住吉町)の一般公開が24日、国連軍縮週間に合わせて始まった。30日まで。 戦況の悪化に伴って空襲に備え、1944年8月ごろから三菱兵器製作所・大橋工場の一部が住吉町の山中へ移設された。市によると、掘削作業は朝鮮半島出身者ら約800~千人が担ったという。トンネル1の規模は高さ約3メートル、幅約4・5メートル、長さ約300メートル。6掘削する計画だったが、2しか稼働しない段階で原爆の被害に遭った。 掘削と並行してトンネル内では魚雷の生産が行われ、県内外から動員された10~20代の約1800人が24時間交代で当たった。爆心地から約2・3キロと近く、投下時、トンネル外にいた人はほとんどが亡くなり、中にいて大きな被害を免れた人たちが負傷者を手当てしたという。 年2回の公開は

    トンネル工場跡公開 戦争末期、空襲避け魚雷生産 国連軍縮週間に合わせ
    cinefuk
    cinefuk 2019/10/25
    "「疎開工場」として建設され、魚雷を生産した #三菱兵器住吉トンネル工場跡(長崎市住吉町)の一般公開が24日、国連軍縮週間に合わせて始まった。10月30日まで。トンネルは高さ約3m、幅4.5m、長さ約300m。"
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