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ブックマーク / www.nippon.com (5)

  • サバの輸入国から輸出国になった日本 : 小型サバをアフリカに輸出、脂の乗ったノルウェー産を輸入

    Japan Data サバの輸入国から輸出国になった日 : 小型サバをアフリカに輸出、脂の乗ったノルウェー産を輸入 経済・ビジネス 暮らし 2019.02.01 サバ味噌煮、サバ塩焼、締めさば――サバは和の王道材だが、いまや、日がサバ輸出大国となっているのをご存知だろうか。 1999年は輸入量17万トンに対して、輸出量はわずか2000トンだった。2004年頃から輸出量が急激に増加し、06年には17万トンとなり、輸出入量が逆転した。06年の輸出先は中国4万7700トン、韓国2万8500トン、タイ2万3300トンとアジア3カ国が全体の6割を占めた。 ここ数年、輸出先として存在感が増しているのがアフリカ諸国だ。18年は輸出量24万8700トンのうち、ナイジェリアが5万500トン、エジプト4万5700トン、ガーナ2万5700トンなど5割以上をアフリカ諸国が占めた。アフリカでは保存としてサ

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  • 『BRUTUS』台湾特集表紙問題:台湾人が不満を感じた理由 | nippon.com

    7月15日に発売された日の雑誌、『BRUTUS(ブルータス)』台湾特集号の「表紙」が台湾メディア上で「炎上」と言っていいほど大きな話題になった。 この騒動の前提として、『BRUTUS』はすでに流行に敏感な台湾の人たちから格別な支持を受けていたことがある。台湾の書店やカフェ、クリエイターの手元には必ずと言っていいほど置いてあるこの雑誌は、若い世代の台湾カルチャー、つまり日や米国・欧州の文化を吸収しながら「台湾文化とは何か」を考えつつけん引してきた世代にとって、なくてはならない雑誌で、だからこそこれだけ注目が集まったと言えよう。 「街の表情」を巡り賛否両論表紙は台南の有名な美街である「国華街(グオホアジエ)」の路上写真。 これまでの日の雑誌の台湾特集では、あくまでも主役は「べ物」や「街の雑踏の中にいる人物」だったが、今回の主役は「街の表情」そのものである。 台湾で論争の発端となった意

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  • 【Photos】現代に息づく名庭園

    庭園は雄大な景色を背景に取り込んだり、瀧や川の流れなど自然の風景そのものを表現したりするなど、日人の自然観を表してきた空間だ。その中でも宿泊施設や美術館などにある、訪問者が利用しながら楽しめる名園を紹介しよう。 1000年の歴史を超えて 日庭園の黎明(れいめい)期は、古墳時代にさかのぼる。それから1500年以上、連綿と続く歴史を持つ。寺院の庭のように作庭当時の姿をとどめる庭園もあるが、その多くは時代の移り変わりとともに姿を変えながら現在に至っている。数百年の時の流れを経て残された名庭園を、現代を生きる私たちが体験できることの至福。日庭園とは、これほどまでに贅沢(ぜいたく)な体験ができる場所なのだ。 庭園の鑑賞法 私たちが見るべき価値のある庭園の代表的な例に、「特別名勝」や「名勝」の指定を受けた庭園がある。これは歴史的、文化的価値の高いものとして、まさに時代の荒波を乗り越え、残るべ

    【Photos】現代に息づく名庭園
  • 銭湯絵師という仕事-田中みずき

    銭湯にある大きなペンキ絵を描く絵師は、全国でわずか3人。唯一の若手として伝統を将来につなげる役割を担うのは、大学で美術史を専攻してこの世界に魅せられた女性だ。 田中 みずき TANAKA Mizuki 1983年大阪生まれの東京育ち。明治学院大学で美術史を専攻。在学中の2004年に銭湯ペンキ絵師の中島盛夫さんに弟子入りして修行を始め、2013年に独立。同年、便利屋を営む駒村佳和さんと結婚。現場では、駒村さんに足場を組んでもらうなど2人で協力して仕事をする。現在は銭湯をはじめ、個人宅、店舗や介護施設など全国各地のさまざまな場所でペンキ絵を制作。銭湯の魅力を伝える活動にも力を入れている。ブログ「銭湯ペンキ絵師見習い日記」を逐次更新中。 集中力と体力が勝負 銭湯と聞いて、ノスタルジーを感じる中高年の日人は多い。かつて毎日のように近所の銭湯に通うのが日常の一部だった記憶があるからだ。1960年代

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  • 「文字の美しさを極限まで追求した芸術です」アラビア書道家・本田孝一

    神の言葉である『コーラン』を美しく書くために1000年以上もの時間をかけて磨かれてきたアラビア書道。ピカソもその美を愛した、世界でも例のない文字芸術に挑んだ日人がいる。田孝一、イスラム世界でも認められた日人書家はアラビア書道で何を伝えようとしているのか。 田 孝一 HONDA Kōichi アラビア書道家。日アラビア書道協会会長。大東文化大学国際関係学部教授。1946年神奈川県生まれ。東京外国語大学アラビア語学科卒業。1974年、パシフィック航業に入社。約5年間の中東滞在中に、現地のアラビア書道家により手ほどきを受ける。帰国後、アラビア書道を独習。‬国際アラビア書道コンテスト審査員奨励賞をはじめ、数々の賞を受ける。2000年、トルコのハッサン・チェレビー師より書道印可(イジャーザ)を授与される。主な著書に『パスポート初級アラビア語辞典』(共著、白水社)、『アラビア語の入門』(白水

    「文字の美しさを極限まで追求した芸術です」アラビア書道家・本田孝一
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