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社会とセルクマに関するcrow_henmiのブックマーク (10)

  • 世界内戦のアスペクト――世界システム史的観点と実存的観点 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    Twitterからの転載・改稿。 世界内戦において、ぼくが世界システム史的観点より、クラスタ性・親密圏にまで及ぶ他者性に注目するのは、そこで生きる個人の心理的なありかたというものを重視するからであるという話をしておきたい。 戦う相手が明確にヴィジョンとして見え*1、それに対して素朴コミュニタリアニズム的に共闘できるなら、それは単に友=敵関係の世界的延伸に過ぎない。グローバルなレベルでの非対称戦など、911以前から展開されていた。911がなにか具体的なものをもたらしたとしたら、グローバルな非対称戦が衆目のもとに立ち現れたことであり、その当事者としてのわれわれと、敵としての「他者」=ジハディストが立ち現れたこと、そしてそれにより例外国家の例外状態性が前景化しつつなお是認されたことであるが、それは事実上「過去のこと」として後景化した。結局「911的想像力」――国家の内外における危機のもとに結集し

    世界内戦のアスペクト――世界システム史的観点と実存的観点 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • なぜ若者は宮台理論や東理論を受け入れるのか――後藤和智「お前が若者を語るな!」を読んでの雑感―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    2010年1月20日更新。Twitterよりの転載・改稿。 後藤和智「お前が若者を語るな!」は、その俗流若者論への批判の鋭さについては多分に評価するべき部分があると思うが「東浩紀の劣化コピー」*1であるぼくとしてはdisっておかねばならない部分があるとおもうのでちょっとdisっておく。 後藤和智の宮台真司や東浩紀の若者論に対する批判は、その実証性のなさを突いた部分は理解/評価できるが、なぜそのようなものが当事者世代の一部にも受け入れられ、熱心なビリーバーを産んだかについて言及していないところに議論としての欠落があるように思える。後藤の批判はそれが若者世代の「敵」――具体的には年長世代の攻撃の具となっている、というところに焦点がおかれており、肝心の若者自体がどう感じているかについての客観的な視座が欠落している。このため、世代論ビリーバーの動きを捉えられないか無視しているのだ。宮台や東の俗流的

    なぜ若者は宮台理論や東理論を受け入れるのか――後藤和智「お前が若者を語るな!」を読んでの雑感―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2010/01/20
    若者一般論の装いをなしているが、実のところ東ビリーバーの自己分析と信仰告白ともいう。いとおかし。
  • なぜわれわれは南京にこだわるのか――自己倫理の賭金としての南京―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    「こっそり南京アンケート - 「で、みちアキはどうするの?」」を読んで思ったことなど。 南京大虐殺があった/なかった、みたいな、自己の生活と直接的にかかわりのない*1問題について、真剣に論じる人たちというのは何か、ということをみちアキ氏が問うていたので、自分なりに考えてみると、すなわちそのような問題は、われわれにとって自らの倫理のあり方における賭金としてあるがゆえに真剣に論じられるのだという印象を抱いた。 南京大虐殺があった/なかったを問われるとき、それを「どうでもいい」と回避せず「あった」と主張する人は、そこをフックとする問題意識を抱いている。それは史実性をめぐる正確さやレスポンスビリティ、民族主義やレイシズム、あるいは愛国主義や自由主義史観、「歴史家論争」など多様な分野に広がっていく問いとしてある。そして究極的には「人間とは/自分とはいかなる倫理において生きるべきか」をむき出しにしてし

    なぜわれわれは南京にこだわるのか――自己倫理の賭金としての南京―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2009/06/05
    ある個別のマターが自らの存在倫理を賭ける対象となってしまうことについて。
  • ゼロ年代の想像力雑感――主体性とレイプファンタジーについて―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の提示した問題のフレームは確かに興味深いのだが、同時にさまざまな異論をあげたくなるような強引な部分が存在する。それについて、少しばかりメモしておきたい。 主体性の素朴な扱い 宇野常寛の議論にひとつだけ異を唱えろといわれたなら、迷わず彼の「主体」に対する執着をあげる。これは彼の議論の根幹である動員ゲーム論から、細部であるレイプファンタジー批判にまで応用できる。彼は主体が能動的決定者であるように単純化して取り扱うが、実際のところ、主体というのは「われあり」という根源的な部分と、それが世界と向き合うことで発生する「われかくあり」という倫理=表現的部分とに分かれる。そして人間は後者の主体性を生きている、といえる。 このような主体性は、世界と自己との関係性――すなわちコンテクストの中での暫定的なものでしかないにもかかわらず、再帰的に強化されていくという性質を持つ。これを宇

    ゼロ年代の想像力雑感――主体性とレイプファンタジーについて―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2009/06/05
    宇野常寛の「主体性」概念の扱いやレイプファンタジーの議論について。
  • ポストモダン社会におけるレスポンスビリティと決断の倫理 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    「ポストモダニズム系リベラルの世界も大変だ - 過ぎ去ろうとしない過去」を読んで思ったことなど。 おそらく、レスポンスビリティは「趣味」の問題としても発生しうる。あるものが声を上げたとき、それに対してどう振舞うかを決めるのは趣味であろうとなかろうと究極的には自分だ。そこには決断という自己決定がある。その意味で、決断とは倫理の問題ではないだろうか。 決断を行うこと、それを再帰的に展開していくこと、あるいはそれを途中からコミュニケーションの様相に応じて変化させていくこと、そしてその結果を引き受けていくこと――それはやはり「趣味の問題であろうとなかろうと」ひとつの倫理なのだ。それゆえに、けして「趣味の問題」などというカジュアルな言葉で切り捨てるわけにはいかない、独自の深刻さと戸惑いというのがポストモダン・リベラルにはある。 その深刻さと戸惑いとは、とりもなおさず自己が無根拠の中から何かを選択しな

    ポストモダン社会におけるレスポンスビリティと決断の倫理 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2009/06/04
    ポストモダン的な状況で「正しく」振舞うことの困難。倫理と超越論的正しさが接続されないことについて。
  • 押井守の戦後/廃墟論(メモ) - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    押井守演出舞台『鉄人28号』感想。 -パトレイバーより前にあった戦後史としての『鉄人28号』を読んで、押井守が何度も問題にしてきた「戦後的なるもの」と「廃墟の自由」について少しばかり考える機会があったので、ここにメモしておく。 第2次大戦の終結後、日人が直面したのは一面の廃墟であった。しかしそれは相反するふたつの意味が並存する両価性の空間であった。営々として積み重ねられてきた生活とそれが表象する意味が根こそぎ失われた空間としての廃墟に、思想家は観念的な意味での自由――そこに何もないが故に、先取りした理想の未来を描くキャンパスとしての可能性、あるいはまさに廃墟そのものに依拠するアナキズム的な自由を見出した。前者は「戦後民主主義」であり、後者は「野良犬の自由」である。一方で大多数の現実家は、そこに生きていかざるを得ないために生活を積み重ね意味を付与していく。それは観念的自由が現実の生活に疎外

    押井守の戦後/廃墟論(メモ) - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • おれには口がない、それでもおれは叫ぶ――複雑化社会における心情倫理―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    「自己責任じゃないならなんだってんだ」 まあいつものみちアキ氏なんだが、あえてマジレス。 ひどく単純明快な答えを述べるとするならば「確かにそうした社会システムを作り出すことに寄与したぼくたちのひとりひとりに責任があり、ゆえにそれを正すべく、できる範囲でできる範囲のことをしよう」ということになる。blogで批判エントリを書くのもそうした運動のひとつで、特に矛盾したものではない。より効率的な戦略、より深いコミットメントなども可能だろうが、ボランティアの典型的なパラドックスである「自分はより役に立つ行動をしなければならないのではないか」と考えてその場その時の行動を躊躇することにもつながりかねないので、とにかく自分のできる範囲で何かをする、ことが重要になる。 ただ、そのコミットメントは、ぼくたち自身が作り出すことに寄与した社会システムの欠陥に阻害されて効率が悪くなるので、責任に対して十分なリソース

    おれには口がない、それでもおれは叫ぶ――複雑化社会における心情倫理―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2009/01/17
    社会構成員としての義務の行使と、それを阻む社会システムの欠陥について。
  • 飛べ、ヨッサリアン!――派遣村に集う人々の生の目的論的意味論争についての所感―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    みちアキ氏のエントリ「派遣村に流れ着いた人が最初に考えるべきだった、たったひとつのこと」について。 ぼくが云いたかったことの大半は安眠練炭氏のエントリ「生きるということは手段ではない」で語られているのだが、少し余禄があるので書いておく。 まず、派遣村に集まる人々に生の目的がないかのように論難しながら、一方で彼らをそのような状態に追い込んだシステムについて、みちアキ氏には批判的視座がないことがあげられる。これは、みちアキ氏にとって「運が悪い」ですむことだというのは、ガザ虐殺問題に関する過去ログを参照すれば理解できるのだが、そのような態度は「人間の作り出した、改変しうる仕組みに対する盲従」の内面化、すなわち自己奴隷化ではないだろうか。そのような自己奴隷化をなしている人間が、その範囲で「生の目的」を語っても、その自由は「仕組み」の内部の自由――端的に云うと奴隷の自由でしかありえない。みちアキ氏が

    飛べ、ヨッサリアン!――派遣村に集う人々の生の目的論的意味論争についての所感―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2009/01/09
    奴隷の論理、でいうなら、竹内好あたりを持ち出してきても良かったかな。西欧=資本主義的なるものへの絶対的従属性をいかに克服するかという問題意識。/id:tetracarbonyl 違うよ、全然違うよ。
  • 2008-06-22

    今日は外に遊びに行く予定だったのだけど、体調が急降下してだるかったので家でごろごろしていた。来週こそリベンジ。 「サバルタンとしての加藤智大」(http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20080621#1214062132)について、あちこちからツッコミを受けて多岐に渡る議論になった。それについて、ある程度まとめておきたいと思う。ただ、気力がないので手短に。 サバルタン性は加藤という存在、あるいは加藤が属していた社会階級のみの問題に収斂されるべきではないのでは? コミュニケーション不全と自己疎外による徹底したサバルタン性というのは、確かに加藤個人や加藤の属していた社会階級のみに止まる問題ではなく、現代社会において普遍的に存在する問題といえる。主体性への接近不可能性(後述)や、他者との了解不可能性という問題は、程度や状況の差こそあれ現代社会に属する個人にとって普遍的

    2008-06-22
    crow_henmi
    crow_henmi 2008/06/22
    id:umeten氏へ。現状におけるサバルタン的なものを救済することの困難への認識はあります。その上で中長期的には、必要な労力の閾値を下げる方向に環境整備していくことに活路を見出したいのですが。
  • サバルタンとしての加藤智大 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)

    今日は1日中ついったしていた。明日は外で遊ぼう。 加藤智大はサバルタンである。なぜならば、彼は社会から疎外され、ネットからも疎外され、自身の主体性からも疎外されている存在だからだ。 加藤が社会的にもネット的にも疎外されていたことについては、既に多くの語りが存在する。では、自身の主体性からも疎外されていた、というのはどういうことか。それは加藤の供述書に見られる決定的な類型性から読み取り得る。 加藤は自己がいかに社会に疎外され、ネットにおいても疎外されていたか、そしてそれはなぜなのかを語るが、そこに読み取れるのは類型的な――極一般的にネットで流布されている非モテ言説のテンプレートでしかない。そこからは白昼衆人環視の中で大量殺人を起す動機を読み取ることができない。もしそこから動機を読み取れるというのなら、非モテ言説を述べるbloggerのほとんどは大量殺人者予備軍であることになるが、もちろん、そ

    サバルタンとしての加藤智大 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)
    crow_henmi
    crow_henmi 2008/06/22
    id:umeten氏の指摘は鋭い。主体性を持っていればテロリストではない、ということにはならないのは笠井潔を引用するまでもなく明らか。加藤のサバルタン性の深さについて書きたかったけど片手落ちの観あり。
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