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ブックマーク / crow-henmi.hatenadiary.org (67)

  • 岡和田晃氏とのいさかいの経緯 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    岡和田晃氏の「海外のわけのわからないものより身近なサブカルチャーを褒めろ?」(http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20110411/p2)というエントリですが、実はこれ、ぼくに対する個人攻撃エントリなのです。以下にその次第を説明しておきます。 まずぼくが、Twitterで一連のエントリを書きました。 岡和田晃氏は「エクリプス・フェイズ」に世界内戦の問題意識を見ているようですが、ぼくとしては「ダブルクロス」に世界内戦の問題意識を見出していきたい。だってFEARゲーって批評文脈で全く語られないし、そのくせプレイヤー層は厚いじゃないですか>http://ux.nu/TKs42G http://twitter.com/crow_henmi/status/56045322346041344 ダブルクロスは程よくアメリカ的例外状態における例外国家の姿を描き出すとともに、例外国家がも

    岡和田晃氏とのいさかいの経緯 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • 世界内戦のアスペクト――世界システム史的観点と実存的観点 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    Twitterからの転載・改稿。 世界内戦において、ぼくが世界システム史的観点より、クラスタ性・親密圏にまで及ぶ他者性に注目するのは、そこで生きる個人の心理的なありかたというものを重視するからであるという話をしておきたい。 戦う相手が明確にヴィジョンとして見え*1、それに対して素朴コミュニタリアニズム的に共闘できるなら、それは単に友=敵関係の世界的延伸に過ぎない。グローバルなレベルでの非対称戦など、911以前から展開されていた。911がなにか具体的なものをもたらしたとしたら、グローバルな非対称戦が衆目のもとに立ち現れたことであり、その当事者としてのわれわれと、敵としての「他者」=ジハディストが立ち現れたこと、そしてそれにより例外国家の例外状態性が前景化しつつなお是認されたことであるが、それは事実上「過去のこと」として後景化した。結局「911的想像力」――国家の内外における危機のもとに結集し

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  • TRPGにおける世界内戦の再現性(メモ) - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    ずいぶん昔にメモしていた文章の再掲。 「TRPGにおける世界内戦の再現性」について少しメモしておこう。 世界内戦とは、ポスト9.11における、世界の誰しもがどこにいても必ず何らかの先鋭的な友=敵関係に包含されそれによる脅威にさらされざるをえないという状況を指す、というのがぼくの解釈だ。その理由は経済・宗教・イデオロギーなど様々であるが、ここにおいて、世界は無数のクラスタに分断され、それぞれが先鋭的な友=敵関係に晒される。そして個人の主体も、そのような環境の中で再帰的に陶冶される。彼らは生き残るためにそれぞれ有意に友的である存在と共通利害によるバンドを形成し、敵なるものと対峙=闘争することとなる。敵はただひとつの方向にいるのではない。トポロジックに展開されたコミュニケーションのネットワークを通じ、あらゆる方向に存在する。一方で、友となりうるものもまたそのように無数の方向に複数存在している。そ

    TRPGにおける世界内戦の再現性(メモ) - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2011/04/08
    FEARゲーは世界内戦を再現するためのダイナミックなPC間関係性システムを搭載していてポテンシャル高いですね、という話。
  • 「コードギアス」と「羽月莉音の帝国」に見られる決断主義者の社会との対峙(メモ) - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)

    「コードギアス」と「羽月莉音の帝国」について、いささか思うところがあったのでメモ。 いわゆる決断主義的アティチュードによって主人公のマニューバーが決定されていることから、両作品は決断主義的と一部の人には捉えられそうだが、両作品の質は、自己の欲望が世間という中間項を貫通して世界全体にまで至るエスカレーションである。決断主義はセカイ系の奇胎であるがゆえにセカイ系的な現実認識の歪み――すなわち世間や社会という中間項を迂回して直接世界全体と接続すること――をも継承しているが、両作品においては中間項における現実的諸問題との対峙/克服と、それにともなう具体的な闘いの技法がプロットの重要な局面として描かれる。特に「羽月莉音の帝国」においてはそれこそが物語の中心モチーフである。 コードギアスにおいては「世界は自己の思惑とはかかわりなく勝手に自己へと侵入してくる」という伊藤計劃の謂があてはまるかのように、

    「コードギアス」と「羽月莉音の帝国」に見られる決断主義者の社会との対峙(メモ) - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)
    crow_henmi
    crow_henmi 2011/02/28
    誤字ってたので修正。
  • 自己の限定性との対峙――あるいは「罪」と「赦し」について - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    序文 このエントリーは、主にTRPGというジャンルにおける意思決定と倫理について先にupしたコヴェントリー・ジレンマから考えるTRPGの遊戯としての可能性の続編であり、AGSの「傷だらけの偉大な負け組に捧ぐ:「役割演技式競技」における「ヒーロー」とは何者であろうか?」及び、「戦略の迷走:『空の境界』と『キラーエンジェルズ』の場合」への補論として書かれたものである。 このエントリーにおいては、主にTRPGにおけるプレイヤーの意思決定について語っているが、その方向性は人間一般の意思決定に関わる倫理にもある程度敷衍しうることを織り込んでいる。TRPGというジャンルについてご存じない方も、ある種の意思決定に対しての倫理性を語ったエントリとして読んでいただければ幸甚である。 文 意思決定の時間性、あるいは限定性の回避について まずは、人間の意思決定というものがどのような時間性に縛られているかについ

    自己の限定性との対峙――あるいは「罪」と「赦し」について - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2010/12/12
    意思決定とそこにつきまとう限界をどのように克服するか、あるいは受け入れるかについてのメモ。
  • コヴェントリー・ジレンマから考えるTRPGの遊戯としての可能性 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    序文 岡和田晃氏が主催するAGSというゲーム批評blogにおいて公開された「傷だらけの偉大な負け組に捧ぐ:「役割演技式競技」における「ヒーロー」とは何者であろうか?」というエントリについて、主に倫理的問題から対論を展開してみたい。 このエントリにおいては、ある種の英雄像――すなわちある事態において、事態に関わる全員が救われるように行動し、それに成功する者と対置して、ある事態において限定的なリソースしか持たないがゆえ、常に誰かを犠牲にすることでしか他の誰かを救えないという無力さを抱えつつも、なお最善を尽くし犠牲者の死を背負ってゆく者の姿を指し示し、それを称揚しているように、ぼくには思える。それは基的に了解可能な概念であり、多くの人達がそのような人物像に学び得るだろう。特に、有限のリソースしか持たずにゲームに向かうプレイヤーたちが、目的達成のため「何を切り捨て、何を取るべきか」という決断をす

    コヴェントリー・ジレンマから考えるTRPGの遊戯としての可能性 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2010/12/08
    トリアージ論争における知見、あるいはオメラス問題の自己流解釈をもととした、TRPGにおける応用例。現実にも敷衍できるかもしれない。
  • 「不気味なもの」との対峙と克服――サバイブ系共同体主義的想像力における覚書 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    初出不明。 いわゆる「サバイブ系」すなわちある個人または共同体がその外部の敵対性と対峙し、それを克服せんとしていく想像力が生み出す物語の形態について、少し思うところがあったのでメモしてみた。 サバイブ系コミュニティの存在強度/存在意義は「共通の敵」によって導きだされる。しかし、それが存在しなくなってしまえば、コミュニティの存在価値は必然的に低下する。そこにおいて、コミュニティ維持の自己目的性が「新たな敵」を作り出しはしないか、という懸念が発生する。また、そのようにはならず、存在意義の小さいコミュニティが惰性的に存続する、あるいは目的を達して解散するという形もありうるが、そこにおいて重要なのは、コミュニティと自己との距離をどのように設定し、コミュニティによって補填されない実存価値をどのように代替するかということになる。 つまりこれはいわゆるモバイル的実存と関わってくるのだが、主人公に取って真

    「不気味なもの」との対峙と克服――サバイブ系共同体主義的想像力における覚書 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • みんな大好きな戦争――世界内戦における現代ファンタジー的想像力についての備忘録 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    初出2010年6月ごろ。 カール・シュミット「パルチザンの理論」で、現代ファンタジーのうち、特に絆と世界内戦的状況に重点をおいたものを語ってみるためのメモ。われながらこじつけが過ぎると思うが、誰かの思考の肥やしにでもなれば幸いです。 文 現代ファンタジーあるいは現代伝奇などと云われる想像力というのは、まずその核心に「中心対周縁」の対立構造をもって現れた。それは大きな物語とそれに包摂されないものという対立関係であり、周縁から中心へと、日常を異化する「不気味なもの」の侵攻という構図をとった。だが、後期近代における社会の脱呪術化がもたらした「平坦な日常」――すなわち極限まで周縁的なるものが排除された世界観は、その「中心対周縁」という構図を無効化した。 しかしながら「平坦な日常」は、その必然として「中心」が存在したがゆえの求心力を失い、分断され、衰退しつつある。そこにおいて世界の連続性は失われ、

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  • 「萌えと美少女とお約束」についてのメモ - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    2010年4月30日更新。 mixiボイスのほうで長文を書いたので、流れてしまわないうちにメモしておく。 mixiでやりとりした「尖ったヲタがお約束とセックスの重力に引かれて小さくまとまる」問題というのは結構重要だと思っているのだが、俺自身が小さくまとまったなかでごちゃごちゃやっているヲタなので耳が痛い。ヲタは量的には浸透と拡散をしたが、質的にはかつての過剰さを失い、むしろ平凡なものになりすぎたように、ぼくには思える。ではなぜそのようになったのか、少し偽史的記述を試みてみる。 80年代に勃興し、しかし一度は徒花として散るかに見えた「美少女」というイデオロギーが90年代前半にセラムンで復権したことが、ことの始まりである。それ自体は悪いことではない。しかし「美少女」というイデオロギーは強すぎ、ヲタのあらゆるイデオロギーと結合して「美少女にハァハァする人≒ ヲタ」という状況と概念を生み出してしま

    「萌えと美少女とお約束」についてのメモ - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2010/04/30
    ヲタクがなぜ趣味的なものへの過剰さを追求するマニアックなものから、美少女に萌えるものへと変質したかのメモ。割と乱暴な議論なので、熟慮が必要かも。
  • 文脈的距離と構造的距離――立ち絵演出の二重性―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    2010年1月25日更新。 ギャルゲー一般の立ち絵演出の起源において、立ち絵はキャラを表し、背景は状況を表す書割だった。キャラとの関係性を重視するギャルゲーにおいて、重視されるべきはキャラとの関係であり、キャラがどのように振舞うかであった。まるで中世の宗教画のように、物語の文脈の中で重要なキャラは前景化し、そうでないキャラは後景化/フェードアウトする。そのさらにうしろに、書割としての背景が存在する。そのような形式が、かなり長期間用いられてきた。これを究極的に推し進めると、Liar-Soft「Forest」のように、書割とキャラが完全に分離した演出手法となる。 しかしながら、やがて立ち絵演出の中にも遠近法が――物理的な意味で近くにいるキャラは前景化し、遠くにいるキャラは後景化するという方法論が部分的にも用いられるようになる。これは、基的にはプレイヤーの「視点」がひとつに――そのアバターたる

    文脈的距離と構造的距離――立ち絵演出の二重性―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2010/01/25
    ギャルゲーの立ち絵演出について、自己=ヒロインの対関係と、その間に世界を挟んだ多項関係の側から検討してみた。
  • 中二病という桎梏――現代伝奇はこの先生きのこることができるか―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    2010年1月22日更新。 「中二病と云う言葉が使われる度に、世界から大切なものがひとつ消えていく」 ――元長柾木―― 中二病とか云って現代伝奇のテンプレ要素が否定されて行く時代に、ぼくたちはどうやって現代伝奇を書けばいいのか問題。 中二病同士が己の尊厳をかけて邪気眼バトルする話が現代伝奇の来の姿であり、いまでも売れ線の作品に多く見受けられるが、その想像力はすでにネタ化され、アイロニカルに語られるものになりつつある。ここでも使っている「中二病」あるいは「邪気眼」といった概念によってネタ化された現代伝奇の想像力は、ある種の行き詰まりを見せていると云えるのではないか。 しかしなぜこのようなアイロニカルな変容を、現代伝奇の想像力は経てきたのだろうか。そこには「時代的感受性のアイロニカルな変遷」というものが関係しているように思われる。具体的にはどういうことか。 まあこれはいつもの後期近代論とポス

    中二病という桎梏――現代伝奇はこの先生きのこることができるか―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2010/01/22
    中二病や邪気眼と現代伝奇のこじれた関係を、現代伝奇がいかにして克服するかについて。
  • なぜ若者は宮台理論や東理論を受け入れるのか――後藤和智「お前が若者を語るな!」を読んでの雑感―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    2010年1月20日更新。Twitterよりの転載・改稿。 後藤和智「お前が若者を語るな!」は、その俗流若者論への批判の鋭さについては多分に評価するべき部分があると思うが「東浩紀の劣化コピー」*1であるぼくとしてはdisっておかねばならない部分があるとおもうのでちょっとdisっておく。 後藤和智の宮台真司や東浩紀の若者論に対する批判は、その実証性のなさを突いた部分は理解/評価できるが、なぜそのようなものが当事者世代の一部にも受け入れられ、熱心なビリーバーを産んだかについて言及していないところに議論としての欠落があるように思える。後藤の批判はそれが若者世代の「敵」――具体的には年長世代の攻撃の具となっている、というところに焦点がおかれており、肝心の若者自体がどう感じているかについての客観的な視座が欠落している。このため、世代論ビリーバーの動きを捉えられないか無視しているのだ。宮台や東の俗流的

    なぜ若者は宮台理論や東理論を受け入れるのか――後藤和智「お前が若者を語るな!」を読んでの雑感―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2010/01/20
    若者一般論の装いをなしているが、実のところ東ビリーバーの自己分析と信仰告白ともいう。いとおかし。
  • 架空のゲームシステムについてのメモランダム - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    ついった>mixiからの再転載。 とりとめもなくフィクションに出てくるゲームの話。以下のような感じで、さまざまな作品に登場する「物語上重要ではあるがそのルールに対する考察が十分になされていない」ゲームの考察をいくつか書いてみたい。 1/押井守「AVALON」における「AVALON」について 「AVALON」においてクラスSAへとチャレンジさせるためのインセンティブは、基的にクラスAで打ち止めのバトルフィールドへの「飽き」とクラスSAへの「好奇心」であるが、その代償が廃人化というのがリスクが高い。しかし、クラスSA挑戦へのリスクの高さはジャンキーともいえるプレイヤーの高いモラルと、ゲームデザイナーの設定した「攻略不可能に見えて実は攻略可能」という剃刀のようなゲームバランスへの「挑戦」意識によって、さらにいえばクラスAおよび「現実」世界の閉塞性によって克服される。 「AVALON」のゲーム

    架空のゲームシステムについてのメモランダム - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
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    crow_henmi 2009/09/13
    押井守「AVALON」および川原礫「アクセル・ワールド」の作品内ゲームについての考察(主にゲームバランス)。
  • 両価的な他者性が描き出す可能性――エヴァとエロゲと赤い浜辺と - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    今旬の話題であるヱヴァと、それが前提とした「THE END OF EVANGELION」(以下EoE)と、このふたつに近縁するジャンルであるところの美少女ゲームがそれぞれ描き出す「他者性」について、それぞれを絡めながら、少し語ってみたい。 美少女ゲームにおける他者とは? 美少女ゲームにおける他者は大体において都合のいい他者であり、自己愛の鏡みたいなところがあるというのは古典的な批判だが、割と的を射ている。というか、それはもはやある種の共通認識だろう。だからこそ、現状における美少女ゲームの倫理的/作劇的問題は、そうしたものであるからこそ表現し、達成しうる何がしかがあるということに移行している。 では、それはどのようなものだろうか。 美少女ゲームにおける他者とは、自己愛が投影された「都合がいい他者」――すなわち他者性と自己愛との間にある両価的他者であるからこそ、異質でありながら共感性を得られる

    両価的な他者性が描き出す可能性――エヴァとエロゲと赤い浜辺と - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2009/07/21
    エロゲにおける他者性の問題を整理したうえで、エヴァに敷衍してみた話。
  • エンドレスエイトにおけるループ描写の特異性 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    今期の「涼宮ハルヒの憂」においては、原作では1話で済んだ「エンドレスエイト」をループ構造の作品として延々繰り返しているのだが、これはいわゆる「ループもの」の作品とかなり違う文脈で描かれている珍しい例なので、少し論じてみたい。 一般にループものと呼ばれる作品が、実際に同じシークエンスをループすることは余りない。むしろ「ループしている」という状況を、さまざまなベクトルから描きつつ一のシリアルなストーリーラインに落とし込むか、ループという状況によって多数化された物語の上にメタフィクション構造を積み上げ、そのメタ部分をメインラインとして、やはりシリアルなストーリーラインが組まれることが多い。 たとえば、前者の代表的な作品である「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」(正確にはその前半部)においては、登場人物たちそれぞれがループの奇妙さに気付き、それを打破しようとしてさらに混乱していくとい

    エンドレスエイトにおけるループ描写の特異性 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2009/07/10
    ここまで「ループ」という概念そのものを突き詰めた作品は珍しいですよ的な話。/id:hatkyma35 原作は未読なのですが、やはりそういう伏線なのですか。/追体験の中での適応の形として読んで頂ければ幸いです。
  • なぜわれわれは南京にこだわるのか――自己倫理の賭金としての南京―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    「こっそり南京アンケート - 「で、みちアキはどうするの?」」を読んで思ったことなど。 南京大虐殺があった/なかった、みたいな、自己の生活と直接的にかかわりのない*1問題について、真剣に論じる人たちというのは何か、ということをみちアキ氏が問うていたので、自分なりに考えてみると、すなわちそのような問題は、われわれにとって自らの倫理のあり方における賭金としてあるがゆえに真剣に論じられるのだという印象を抱いた。 南京大虐殺があった/なかったを問われるとき、それを「どうでもいい」と回避せず「あった」と主張する人は、そこをフックとする問題意識を抱いている。それは史実性をめぐる正確さやレスポンスビリティ、民族主義やレイシズム、あるいは愛国主義や自由主義史観、「歴史家論争」など多様な分野に広がっていく問いとしてある。そして究極的には「人間とは/自分とはいかなる倫理において生きるべきか」をむき出しにしてし

    なぜわれわれは南京にこだわるのか――自己倫理の賭金としての南京―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2009/06/05
    ある個別のマターが自らの存在倫理を賭ける対象となってしまうことについて。
  • ゼロ年代の想像力雑感――主体性とレイプファンタジーについて―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の提示した問題のフレームは確かに興味深いのだが、同時にさまざまな異論をあげたくなるような強引な部分が存在する。それについて、少しばかりメモしておきたい。 主体性の素朴な扱い 宇野常寛の議論にひとつだけ異を唱えろといわれたなら、迷わず彼の「主体」に対する執着をあげる。これは彼の議論の根幹である動員ゲーム論から、細部であるレイプファンタジー批判にまで応用できる。彼は主体が能動的決定者であるように単純化して取り扱うが、実際のところ、主体というのは「われあり」という根源的な部分と、それが世界と向き合うことで発生する「われかくあり」という倫理=表現的部分とに分かれる。そして人間は後者の主体性を生きている、といえる。 このような主体性は、世界と自己との関係性――すなわちコンテクストの中での暫定的なものでしかないにもかかわらず、再帰的に強化されていくという性質を持つ。これを宇

    ゼロ年代の想像力雑感――主体性とレイプファンタジーについて―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2009/06/05
    宇野常寛の「主体性」概念の扱いやレイプファンタジーの議論について。
  • ポストモダン社会におけるレスポンスビリティと決断の倫理 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    「ポストモダニズム系リベラルの世界も大変だ - 過ぎ去ろうとしない過去」を読んで思ったことなど。 おそらく、レスポンスビリティは「趣味」の問題としても発生しうる。あるものが声を上げたとき、それに対してどう振舞うかを決めるのは趣味であろうとなかろうと究極的には自分だ。そこには決断という自己決定がある。その意味で、決断とは倫理の問題ではないだろうか。 決断を行うこと、それを再帰的に展開していくこと、あるいはそれを途中からコミュニケーションの様相に応じて変化させていくこと、そしてその結果を引き受けていくこと――それはやはり「趣味の問題であろうとなかろうと」ひとつの倫理なのだ。それゆえに、けして「趣味の問題」などというカジュアルな言葉で切り捨てるわけにはいかない、独自の深刻さと戸惑いというのがポストモダン・リベラルにはある。 その深刻さと戸惑いとは、とりもなおさず自己が無根拠の中から何かを選択しな

    ポストモダン社会におけるレスポンスビリティと決断の倫理 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2009/06/04
    ポストモダン的な状況で「正しく」振舞うことの困難。倫理と超越論的正しさが接続されないことについて。
  • キャラクターが結びつける数多の虚構――「うみねこのなく頃に」におけるゲーム的想像力の様態について―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    「うみねこのなく頃に」におけるゲーム的想像力は異様な姿を取っている。通常のゲーム的想像力においては、メタ物語は多数化された物語からビルドアップされる――多数化した物語を読み解いていくことで立ち現れる「個々の物語がなぜそのようにしてあったか」という審級であり、それを克服するための「解」として描かれるのだが、うみねこははなからメタ物語を前面に押し出しており、個々の多数化された物語はメタ物語にサブジェクトする存在に過ぎないはずだった。 これはある意味ラジカルな方法論といえる。ゲーム的想像力というものの質――すなわちメタ物語という階梯を摘出し、前景化しているといえるだろう。しかし一方で、うみねこはメタ物語部分をストレートに物語として展開しているので、ここからメタのベタ化という問題が生まれる。個々の物語の総合からたち現れるのではなく、あらかじめひとつの「物語」として描き出されたメタ物語は、通常の1

    キャラクターが結びつける数多の虚構――「うみねこのなく頃に」におけるゲーム的想像力の様態について―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2009/05/31
    題名通り。
  • うろ覚えCLANNAD論――後期近代における「イエ=家族」の形成の困難―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    Twitterからの転載・改稿。 CLANNADは、主人公とヒロインが、出会いから恋愛、そして学生生活におけるゲゼルシャフト的関係を通じて、「イエ」という史的・空間的連続性を持つ共同体に包摂され、家族として成り立つという話として読みうるし、またそう読まれがちである。 しかし、CLANNADにおいて「イエ」そのものへの帰属が重要であっても決定的でないことは、/ヒロインの実家である古河ファミリーに、主人公である岡崎朋也が参入しない/参入を拒否することから見て取れる。より重要――そしておそらくはメインのテーマであるのは「主人公自らのイエ」への帰属と、その家長としての自意識の形成である、と見るべきだろう。 主人公が古河ファミリーに帰属しないのは、彼自身に「古河のイエ」の一員ではなく「自らのイエ」の家長であるという自覚が無意識的にあるからだといえよう。そのくせ育児放棄とかはしてしまうのだから、主人

    うろ覚えCLANNAD論――後期近代における「イエ=家族」の形成の困難―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2009/04/03
    なぜ麻枝准は「奇跡」を乱発してまで主人公の家父長化によるアイデンティティの回復と「家族」の再生を描こうとするのか、という謎。/id:sukebeningen 謝罪文をblogにupしました。申し訳ありませんでした。