タグ

2009年6月5日のブックマーク (4件)

  • なぜわれわれは南京にこだわるのか――自己倫理の賭金としての南京―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    「こっそり南京アンケート - 「で、みちアキはどうするの?」」を読んで思ったことなど。 南京大虐殺があった/なかった、みたいな、自己の生活と直接的にかかわりのない*1問題について、真剣に論じる人たちというのは何か、ということをみちアキ氏が問うていたので、自分なりに考えてみると、すなわちそのような問題は、われわれにとって自らの倫理のあり方における賭金としてあるがゆえに真剣に論じられるのだという印象を抱いた。 南京大虐殺があった/なかったを問われるとき、それを「どうでもいい」と回避せず「あった」と主張する人は、そこをフックとする問題意識を抱いている。それは史実性をめぐる正確さやレスポンスビリティ、民族主義やレイシズム、あるいは愛国主義や自由主義史観、「歴史家論争」など多様な分野に広がっていく問いとしてある。そして究極的には「人間とは/自分とはいかなる倫理において生きるべきか」をむき出しにしてし

    なぜわれわれは南京にこだわるのか――自己倫理の賭金としての南京―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2009/06/05
    ある個別のマターが自らの存在倫理を賭ける対象となってしまうことについて。
  • こっそり南京アンケート - すべての夢のたび。

    会社に行く途中で思いついて、電車を待つ間にiPhoneからアンケートを設定、それが8時15分ぐらいですね。回答数300件、16時過ぎに終了しました。さて以下が結果です。 南京事件はどうでしょう。あった 111なかった 95どうでもいい 94 「あった」が1/3よりやや多く、「なかった」「どうでもいい」が1/3よりやや少ない、と、そんな割合になりました。ご感想はいかがでしょうか。割合としては20代の「どうでもいい」が他の年代より少しだけ多く、男女差はほぼないようです。 「どうでもいい」はぼくです。あったなかったが、いますぐなにか直接にぼくの生活に関わってくるわけじゃないですしね。でも、気持ちとしてはなかったのなら良かったのになぁとは思います。自分の住んでる国が昔やったらしいよくないことの話だし、死んだ人の数なんて少ない方がいいに決まってる。 そういうぼくからすると「あった」の人たちの主張は、

    crow_henmi
    crow_henmi 2009/06/05
    id:michiaki>「なんであそこまで熱くなれるのかがよくわからないからです。」これは多分、レスポンスビリティと、自己の信じる世界観や倫理の賭金として南京問題がフックになっているというふたつで説明できます。
  • ナショナリズムとパトリオティズム - tukinohaのアニメじゃない日記

    ナショナリズムとパトリオティズムは別物であると、ナショナリズムを扱った大抵のには書いてある。しかし、いよいよナショナリズムが高揚しようというときには、このふたつが結びつくことが多い。なんで?と昔から疑問に思っているのだが、誰も答えてくれないので、とりあえず自分なりの答えとして、以下のような筋書きを考えた。 ナショナリズムが勃興していく中で、パトリオティズムは国家によって解体されていく。「偏狭な郷土感情」というレッテルを貼って。しかし、近代国家が国民の定住性を前提として税を徴収するシステムを構築していく以上、その定住性を強化するために郷土意識の醸成もやはり必要となる。そんなわけでナショナリズムの高揚に反比例してパトリオティズムが衰えていくことにブレーキをかけるため、「郷土愛を持とう」キャンペーンが始まる。しかし、それによって今度はナショナリズムが衰える、ということがあってはいけない。 そこ

    ナショナリズムとパトリオティズム - tukinohaのアニメじゃない日記
  • ゼロ年代の想像力雑感――主体性とレイプファンタジーについて―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の提示した問題のフレームは確かに興味深いのだが、同時にさまざまな異論をあげたくなるような強引な部分が存在する。それについて、少しばかりメモしておきたい。 主体性の素朴な扱い 宇野常寛の議論にひとつだけ異を唱えろといわれたなら、迷わず彼の「主体」に対する執着をあげる。これは彼の議論の根幹である動員ゲーム論から、細部であるレイプファンタジー批判にまで応用できる。彼は主体が能動的決定者であるように単純化して取り扱うが、実際のところ、主体というのは「われあり」という根源的な部分と、それが世界と向き合うことで発生する「われかくあり」という倫理=表現的部分とに分かれる。そして人間は後者の主体性を生きている、といえる。 このような主体性は、世界と自己との関係性――すなわちコンテクストの中での暫定的なものでしかないにもかかわらず、再帰的に強化されていくという性質を持つ。これを宇

    ゼロ年代の想像力雑感――主体性とレイプファンタジーについて―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    crow_henmi
    crow_henmi 2009/06/05
    宇野常寛の「主体性」概念の扱いやレイプファンタジーの議論について。