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ブックマーク / brighthelmer.hatenablog.com (7)

  • 拙著『ナショナリズムとマスメディア』について - 擬似環境の向こう側

    これは「ステマ」ではない 「ステマ」という言葉は、消費者のフリをして特定の商品やサービスの購入に他の消費者を誘導することを指す。以下の文章は、を買って欲しい、あるいはせめて最寄りの図書館にリクエストを出して欲しいという著者の切なる願いの反映であり、あえて言えば宣伝文である。 したがって、これは「ステマ」ではない。 「ナショナリズムとマスメディア」事始め ぼくが「ナショナリズムとマスメディア」というテーマで研究を始めたのは、1995年のことだ。当時、ぼくは大学3年生だった。 もともとは国際的な経済格差に関心があり、たまたまマスコミュニケーション論のゼミを志すことになったことから、ゼミに入るための選考では情報発信力の国家間格差というテーマでレポートを書いた。 その後も同じテーマで研究を進めるべくを読んでいたのだが、そこで出会ったのがベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』というだった

    拙著『ナショナリズムとマスメディア』について - 擬似環境の向こう側
  • ぼくの良識 - 擬似環境の向こう側

    自分で言うのも何なのだが、ネット上でのぼくはわりと良識的なのではないかと思う。 ツイッターやブログでも攻撃的だったり差別的だったりすることはなるべく書かないようにしているし、ぼくが書いたものを読んで傷つく人がいなければいいなとも思っている。もちろん、書いているものが下らない、内容がない、間違っている等々の批判はあるとは思っているが、それとこれとは別の話だ。 そんな良識的なぼくのことだ、ツイッターでフォローしている人たちも良識的な人たちばかりだ。政治的な書き込みは多いけれど、人を差別したり中傷したりする人はいない。ただ最近は、ぼくがフォローしている人のあいだでいざこざが多いのが気になると言えば気になる。 そんなぼくのタイムラインをさいきん賑わせているのが、「反差別や平和を掲げているのに差別的だったり、攻撃的だったりする人」に関する話題だ。ぼくも以前のエントリで、そういう人たちを批判したことが

    ぼくの良識 - 擬似環境の向こう側
  • メディア・リテラシーなるもの - 擬似環境の向こう側

    ぼくは大学でメディアについて教えている。 メディアに関して学生の書いたものを読むと、かなりの割合で「メディア・リテラシーを身につけることが必要である」とか「マスメディアを鵜呑みにしてはいけない」という結論に至っている。まるで誰かがフォーマットを作っているのではないかと思うほどだ。 しかし、教員としてこういうことを書くのはいかがなものかとも思うのだが、そもそもメディア・リテラシーなるものは実践可能なのだろうか。ここで安易にウィキペディアから引用してみると、次のように書いてある。 メディア・リテラシー(英: media literacy)とは、情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。 (出典)メディア・リテラシー - Wikipedia 言わんとすることは分かる。分かるのだが、実際問題としてこれを実践することは不可能なのではないだろうか。 毎

    メディア・リテラシーなるもの - 擬似環境の向こう側
  • 言葉のブーメランが返ってくるとき - 擬似環境の向こう側

    ネット上ではやたらと攻撃的なひとが少なくない。 とにかく他者や他集団に対して攻撃的な書き込みをする。それも一つの芸風だと言ってしまえばそこまでだが、そういうひとは防御力が弱くなることも多い。 というのも、誰かを攻撃するためには何らかの理由が必要だからだ。「こんなに酷いことをする(言う)なんて」という理由によってひとは他者や他集団を攻撃する。だが、攻撃をする回数が増えるほどにその理由づけも増えていく。結果、自分自身の行動がそれに当てはまってしまう可能性がどんどん上がっていくのだ。そうなれば、自分自身の言葉がブーメランになって返ってくることもそれだけ多くなってしまう。言論戦において「攻撃は最大の防御なり」は必ずしも妥当しない。 もっとも、言動の一貫性など最初から気にせず、他人からそれを指摘されたとしても無視すればよいだけなのかもしれない。しかし、そういう人は他人からも「そういう人」だと見なされ

    言葉のブーメランが返ってくるとき - 擬似環境の向こう側
  • 移民の受け入れと異文化の共生 - 擬似環境の向こう側

    アパルトヘイトとエスニック・コミュニティ 『産経新聞』に曽野綾子氏が掲載したコラムをめぐって、大きな騒ぎが起きている。曽野氏がアパルトヘイト肯定とも解釈できる主張を行なったからだ。 人は誤解だとしているようだが、このコラムは高齢者介護のために移民受け入れの必要性を論じる一方、かつての南アフリカの事例を取り上げたうえで「住居だけは別にしたほうがいい」と語っている。アパルトヘイト肯定として解釈されても仕方がないように思う。 ともあれ、ネットで急速にシェアされ、ネット系のメディアが取り上げ、海外メディアが「安倍首相の元アドバイザー」の発言として報道するようになった。アフリカ協議会や在日南アフリカ大使から『産経』への抗議が行われて事件となったことで、やや遅れて日のマスメディアも取り上げ始めている。 曽野氏の主張に関してはすでに数多くの批判が行われており、その多くは的確なものだ。アパルトヘイ

    移民の受け入れと異文化の共生 - 擬似環境の向こう側
    dissonance_83
    dissonance_83 2015/02/15
    勉強になる。現実問題として再配分などに絡んで福祉国家である北欧でも問題があるのだから。移民問題を考える上で、産経は曽野氏の為にならない経験談よりこういう記事を掲載すべきではと思う。
  • 『リベラル・ナショナリズムと多文化主義』紹介 - 擬似環境の向こう側

    以前、このブログで「リベラル・ナショナリズム」について取り上げたことがある(参照)。矛盾する思想と見なされることの多いリベラリズムとナショナリズムとを組み合わせ、それを肯定しようとする立場の議論だ。 このリベラル・ナショナリズムの思想をより深いところまで突き詰めた著作が、安達智史さんの『リベラル・ナショナリズムと多文化主義―イギリスの社会統合とムスリム』(勁草書房、2013年)だ。イギリスの移民政策をケース・スタディとしつつ、リベラル・ナショナリズムと多文化主義について書かれた大作である。 書はまず、移民の急激な増加によって「超」多様化するイギリス社会を取り巻く現状について概観する。そこでは移民に対する反発が強まる一方で、移民なしではもはや社会が立ち行かなくなっているイギリス社会の実情が明らかにされる。 次に、書の理論的な背景として、政治哲学の領域に踏み込み、ロールズやサンデルなどによ

    『リベラル・ナショナリズムと多文化主義』紹介 - 擬似環境の向こう側
  • 「表現の自由」の終焉? - 擬似環境の向こう側

    「表現の自由」=「強者だけの自由」? フランスでの新聞社襲撃に端を発する一連のテロ事件。「表現の自由」を脅かす深刻な事態であることは明らかであり、襲撃犯が厳しく罪に問われるべきことは言うまでもない。 その一方で、日語でのツイートを見ていると「あの新聞社の風刺は酷すぎる」という声は少なくない。また、ツイッター検索で“satire hate speech”で検索をかけると多くのツイートがヒットするのは、英語圏でも風刺とヘイトスピーチの違いについて疑問を持つひとがいるのだろう。 いずれにせよ、「表現の自由」という原理は、とりわけマスメディアのそれが関係する場合、もはやそれほどの訴求力を持たないのではないだろうか。言うまでもなく、表現に携わる人びとにとって自由はきわめて重要であり、それを維持するための努力は常に求められる。しかし、「言論の自由」や「表現の自由」が「強者だけの自由」でしかないという

    「表現の自由」の終焉? - 擬似環境の向こう側
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