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ブックマーク / p-shirokuma.hatenadiary.com (375)

  • 今、インターネットおじさん(おばさん)として問われていること - シロクマの屑籠

    インターネットおっさんとしての生き方 ~36歳を迎えて | @raf00 リンク先は、黎明期からインターネットと付き合いながらおじさんやおばさんになった人には無視しにくい文章だ。 かつて、インターネットは若者の国だった。少なくとも、マスボリュームという点で十代〜二十代の比率が高い時代があった。二十二歳や二十四歳がそれほど若くないインターネット。オフ会で出会った三十歳がおじさんに見えたインターネット。 そのインターネットも、さほど若者の国では無くなった。今日日のインターネットには四十代、五十代も珍しく無い。聞けば、2ちゃんねるは高齢化しているという。いつの間にか、家庭や子育ての話題がtwitterやソーシャルブックマークを賑わすようになった――いや、変化は何年も前から起こり続けていたことだ。このまま推移すれば、健康や介護がtwitterやソーシャルブックマークを賑わす日もやって来るだろう。

    今、インターネットおじさん(おばさん)として問われていること - シロクマの屑籠
    dododod
    dododod 2014/04/02
    ” 彼らが若くなったのではない。私が、私達が年を取っただけだ。”
  • ネットでは、給湯室談義が権力を帯びるようになり、ワイドショー人間が権力者になる - シロクマの屑籠

    昨日の続き。 これまでの社会では、ほとんどの人間がワイドショー的なお喋りに耽っていようとも、たいして問題になることはなかった。 もともと人間は、ある程度までワイドショー的だ。給湯室談義も、床屋談義も、居酒屋談義も、かしこまって専門的に喋るわけでも、責任を意識しながら喋るわけでもない。学術的な正確さよりもゴシップや醜聞に惹かれ、下世話な話題に相槌を打つ――そうした泡のような言葉は、歴史が始まって以来、無数にわき起こってきたし、これからもわき起こるだろう。 問題は、そうした給湯室談義、居酒屋談義的なものが、インターネットでは泡のような言葉として消えてしまわず、ときには権力や強制力を帯び始めるって点だ。 素人同士のワイドショー的会話は、来はたわいもなく話され、たわいもなく忘れられていくものだった。純粋な話し言葉だった頃のワイドショー的会話は一過性の度合いが強く、まさに泡のような存在だった。 そ

    ネットでは、給湯室談義が権力を帯びるようになり、ワイドショー人間が権力者になる - シロクマの屑籠
    dododod
    dododod 2014/03/18
  • なんでも手当たり次第に言及しているアカウントは、ワイドショーの劣化コピーになってしまう - シロクマの屑籠

    ブログやtwitterを眺めていると、ワイドショーを劣化させたようなアカウントをしばしば見かける。ありとあらゆる話題に言及しているけれども、どれもこれも底が浅く、皮相的で、読者におもねるところ甚だしいようなアカウントだ。時事の話題、ネットの話題には手当たり次第言及しているのに、ユニークな思念も、一貫性も香り立って来ないアカウント。それとも、あらゆるジャンルの表面 1cm を撫で回し続け、まったく深まっていかないこと自体がそのアカウントの特徴かもしれない。まさにワイドショーの劣化コピーだ。 いや、こう書くとワイドショーに失礼というものだ。ワイドショーには計算があって、短時間に最大限のアウトプットを行うための工夫がある。全国の視聴者に訴えかけるべく、ワイドショーはメディアとしてぎりぎり一杯の仕事に取り組んでいる。話題の表層にしか触れられない条件に特化した技術と洗練と蓄積――こうした“わざ”は、

    なんでも手当たり次第に言及しているアカウントは、ワイドショーの劣化コピーになってしまう - シロクマの屑籠
    dododod
    dododod 2014/03/17
    ”ワイドショーの悪いところを煎じて煮詰めたような、超絶ワイドショー人間のようなアカウント”
  • 次の思春期のために。次の次の思春期のために。 - シロクマの屑籠

    Marginal Soldier: 大人になんてなりたくない:「若作りうつ」社会 拙著「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)をお読み頂き、ありがとうございました。ご感想を拝見しながら、年の取り方と未来について、箇条書き的に書き連ねたくなったので、やってみます。 1.おおむね1980年代〜90年代頃から、私達は、制度的にも、思想的にも、空間的にも、年を取らなくて構わなくなりました。生物学的には年を取り続けているのに、見た目や振る舞いはいつまでも若々しくいられる社会。そのメリットについては、これまで十分喧伝され、現在もテレビCMなどで謳われています。でも、良いことづくめでもあるまい、という疑問が私にはありました。 一般論として、人間が技術やイデオロギーによって何かを獲得する*1際には、必ずなんらかの喪失や変形を伴うものです。活版印刷も、電話も、インターネットもそうでした。社会的に年を取らなくて

    次の思春期のために。次の次の思春期のために。 - シロクマの屑籠
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    dododod 2014/03/12
  • 自律性や自主性を課題にするべきは、成人じゃなくて子どもでは? - シロクマの屑籠

    なぜ日企業の管理職の多くは「変人」を組織から追い出そうとするのか|組織をむしばむ「子ども病」の正体 秋山進|ダイヤモンド・オンライン リンク先の記事には、日企業で一流の人材を育て上げる要件として、1.自律性や自主性の高い人材の必要性を提唱している。また、2.成人後の心理的発達を重要視してもいる。 どちらも、大切な視点だと思う。 しかし、1.2.を繋げて「成人後の心理的発達として、自律性や自主性の高さを育てる」とタイプしてみると、なんだか不思議な印象を受ける。 来、自律性や自主性のたぐいは成人後にじっくり育てるものではなかったはずだ。少なくとも、エリクソンのライフサイクル論を読み親しんでいる人ならそう感じるだろう。成人には成人特有の発達課題があり、例えば「親密さ 対 孤独」であったり「生殖性 対 停滞」だったりする。これらは、ある程度アイデンティティが確立し、自分中心主義的なメンタリテ

    自律性や自主性を課題にするべきは、成人じゃなくて子どもでは? - シロクマの屑籠
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    dododod 2014/03/07
    ”自律性・自主性・積極性ってのは、幼児期の発達課題である”
  • ライブやコンサートに行く人=「若作りうつ」ではありません - シロクマの屑籠

    日午前中、フジテレビ『ノンストップ!』の生放送にお邪魔して、エイジングの遅延に伴うメンタルヘルスの問題について話題提供しました。 初めてのテレビ出演、しかも生放送にしては、落ち着きながら出演できたつもりです。また、年の取り方を度外視したライフスタイルについて問題提起できたつもりですが、舌足らずといいますか、ちょっと誤解を与えるような表現があったのが心残りなので、こちらで補足します。 番組後半、私は「人間は必ず年を取る。何歳になっても思春期的なライフスタイルを続けているのは厳しい」的な発言をし、その例としてライブハウス通いなどを挙げましたが、ライブハウスに行ったりコンサートに出かけたりすること自体は、別段「若作り」なわけでもなく、メンタルヘルスを損ねてしまうリスクでもありません。 来は、「若い頃と変わらないペースでライブハウスやコンサートに出かけて、心身を酷使するような生活を続けていれば

    ライブやコンサートに行く人=「若作りうつ」ではありません - シロクマの屑籠
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    dododod 2014/03/06
  • PVの金貨、PVの銀貨、PVの銅貨 - シロクマの屑籠

    このブログの年間PV数は、かなりショボい。 大手ブログにはほど遠く、中堅ブログを名乗るのも難しい。 けれどもこのブログのお陰で、私はたくさんの知己を得て、有意義な意見交換をさせて頂き、単著を出すこともできた。もし、PV数が絶対的基準だったとしたら、私はそうしたブログの恩恵に与れなかっただろう。 でも、実際にはそうではなかった。もちろん、PVの数をとにかく稼いでメリットに与る方法もある。けれどもそれが「たったひとつの冴えたやりかた」ではないとも思うので、そのあたりについて、なんとなく思っていることを言語化してみる。 PVの金貨、銀貨、銅貨 ブログは、「何人読んだか」も大切だけど「誰が読んだか」も同じぐらい大切だと思う。PVという観点からみても、例えば、ニュースサイト管理者やキュレーターと呼ばれる人達が常連読者になっているブログと、“読み専”な人達しか読んでいないブログでは、たぶん色々と違うだ

    PVの金貨、PVの銀貨、PVの銅貨 - シロクマの屑籠
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    dododod 2014/02/24
    このエントリは何色だろうか
  • 「努力」についてまわる高度経済成長期の呪い - シロクマの屑籠

    「努力は必ず報われる」の残酷さは「報われないならそれは努力ではない」にある。 2014-02-15 19:14:57 via Keitai Web 「努力」。 この言葉をやたらと礼賛する人がいる。 努力さえすれば必ずなんとかなる。人間、努力が肝心だ。努力せよ、努力せよ、努力せよ……。 私も努力は大切だと思う。しかし、[努力すれば必ず何とかなる]とは思っていない。努力は、成功するための必要条件かもしれないが、十分条件ではない。世の中には、無駄な努力を積み上げた人、非効率な努力を続けた人、見事な努力をしたのに不運にやられてしまった人がたくさんいる。だから私は「努力はしたほうが良い、よく選んで、よく考えて」とは思うけれども、「努力すれば必ず報われる」という思い込みには与したくない。 なにより、冒頭のツイートが示しているように、「努力は必ず報われる」という思い込みは、「報われていないならば、それは

    「努力」についてまわる高度経済成長期の呪い - シロクマの屑籠
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    dododod 2014/02/19
    夢はいつかかならず叶う!!(@フェイスレス
  • とにかく生きている。だから「死ぬまでに何をするのか」を考える - シロクマの屑籠

    人は何のために生きているのか。 - 自省log 「人は何のために生きているのか。」 こんな事を考えてもしようがないというか、問いかたに問題があると思うようになったのは、三十歳になるかならないかの頃だったと思う。「人は何のために生きているのか」という問いの間近には「草花は何のために生きているのか」があるし、「太陽は何のために輝いているのか」という問いとも隣り合っている。人間にしても草花にしても太陽にしても、何かが存在している理由を目的論的に問うたところで、「ただ、そこにあるから」としか言いようが無い――草花が何も考えなくともそこに存在しているのと同じように、人間一人一人も、何を考えているのかとは無関係にそこに存在している。 だからもし、誰かに「何のために生きているんですか?」と聞かれたら、私は「別に…。」と答えるほかない。生きる目的、生きる理由、生きる根拠なんてものは無い。そんなものは存在し

    とにかく生きている。だから「死ぬまでに何をするのか」を考える - シロクマの屑籠
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    dododod 2014/02/10
    「memento mori」
  • 「コミュニケーションできなければならない」という規範意識 - シロクマの屑籠

    絶望感がすごい リンク先の文章は、今日の社会ではありがちな悩みだと思う。人間関係や社会的加齢が自己責任になった以上、「年相応に年を取っていくためにどうするのか」「誰と一緒に人生を歩んでいくのか」といった問題は、すべて自分で判断し、舵取りしなければならない。昔は、そうした判断や舵取りが「世間」「イエ」「身分」によってある程度決められていたから、そういった制約を嫌う人からみれば、自由に惑うなど贅沢な悩みで、「自分で考え自分で決めろ、この社会を喜べ」と説教したくなるかもしれない。 それにしても、リンク先の筆者を見ていて気の毒に思うのは、この書き手が「コミュニケーションできなければならない」「コミュニティの人間に好かれる人間でなければならない」といった固定観念めいたものを抱えていそうなこと・その通りには振舞えない自分自身に対して劣等感や罪悪感を抱いていそうなこと、だ。 この人は、自分の容姿を「キモ

    「コミュニケーションできなければならない」という規範意識 - シロクマの屑籠
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    dododod 2014/02/07
    「コミュニケーションできない人間は罪深い人間である」わかる
  • 私がネットで「承認欲求」を使おうと決めた理由 - シロクマの屑籠

    最後に、「承認欲求と私」というか、この言葉に対する個人的な思い出を書いておく。 先日、あるオフ会で、「承認欲求って言葉が広がったのって、シロクマさんが“戦犯”だよねー」と言われた。私はネット上で承認欲求という言葉を使い始めた言いだしっぺではないが、まあ、沢山使っていたのは事実だから、うーん……言わんとしていることはわからなくもない。 「“戦犯”なんて言わないでくださいよ。この言葉が広く使われるようになったのは、私の“功績”じゃないですか。」 「でも、罵倒語として使われるようになっちゃったし」 「それでも私は私なりに、言葉の定義をグリップしようと努力はしてたんですよ。これとか」 “戦犯”という指摘にせよ、“功績”というジョークにせよ、私という一人のブロガーが、「承認欲求」という言葉の流布にどのぐらい影響したのか、正直よくわからない。ただ、私自身、この言葉を使おうと決めるにあたって一種の計算(

    私がネットで「承認欲求」を使おうと決めた理由 - シロクマの屑籠
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    dododod 2014/01/28
    ”「俺の大好物が来たぞ!」”
  • ネットで「承認欲求」が使われるようになっていった歴史 - シロクマの屑籠

    この記事では、インターネットやメディア上で承認欲求という言葉が使われるようになっていった経緯について、個人的にまとめてみる。 現在、承認欲求という言葉はネットスラングのように用いられている。と同時に、著明な学者さんが「承認」という言葉を使ったり、承認欲求をメインテーマにしたが売られたりもしている。だが、こうした風景が昔からあったわけではない。 グラフ:承認欲求の検索件数。Googleトレンドより。 承認欲求という言葉がネットで流通するようになった歴史は意外と短い。2006年頃までは、ほとんど使われていなかった、と言って差し支え無いだろう。実際、Googleトレンドで「承認欲求」のGoogle検索数を確かめてみると、2008年夏頃に小さなピークを迎えた後、いったん殆ど検索されなくなり、2010年5月頃から再び検索件数が増えはじめ、その後、急激に増加している。 こうした動向を踏まえて、インタ

    ネットで「承認欲求」が使われるようになっていった歴史 - シロクマの屑籠
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    dododod 2014/01/23
    ”ネットスラングとして死んだはずの承認欲求が蘇ってきた!”
  • 私達はどのように承認欲求と向き合うべきか - シロクマの屑籠

    第一回:承認欲求そのものを叩いている人は「残念」 第二回:承認欲求の社会化レベルが問われている 第三回:承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について 第四回:私達はどのように承認欲求と向き合うべきか(今回) ここまで、承認欲求について連載してきた。それらを踏まえ、どのように承認欲求と向き合うべきかについて私見をまとめ、結びとする。 最初に述べたように、認められたい・褒められたい・いっぱし扱いされたいといった社会的欲求は、ヒトに生得的に具わったものと思われ、ほとんどの人間に具わっているものと思われる。だから、承認欲求という言葉で表される心理的性向そのものを否定するのは色々な意味で筋が悪い。 承認欲求全般の否定は、おそらく自分自身の心理的性向の一部を否定することにも直結する。そうやって承認欲求に“臭いものに蓋”を続ければ、さしあたり承認欲求周辺の問題から自由になれるかもしれない

    私達はどのように承認欲求と向き合うべきか - シロクマの屑籠
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    dododod 2014/01/20
    ”私自身はそうやって立ち止まって考える習慣がこれまで足りなかった。これは私自身の課題でもある――年少者の成長を願い、喜べるような成人になっていくための。”
  • ネットは深夜番組じゃなくなった。アングラでもなくなった。 - シロクマの屑籠

    ここ最近、なんとなくネット炎上の質感が変わったような気がしていてモヤモヤしていた。けれども今日、twitterでやりとりしているうちに、やっとモヤモヤ(の一部)を言語化できたような気がしたので、書いておく。 昔のネットは深夜番組、今のネットはゴールデンタイム 昔のインターネットは、いわば深夜番組だった。 観る人が限られ、視聴者の総人口は大きくない。オタクとギークと研究者、一部の好事家がインターネットの主要メンバーだった。広大といえば広大な、狭小といえば狭小な世界では、現在同様、善い出来事も悪い出来事もあったし、誹謗中傷や“荒し”もあった。2ちゃんねるでは“祭り”が繰り広げられていて、ギコやモナーが祭りだワショーイと集まっていた。オンラインの揉め事がオフ会に持ち越されてトラブルになる、という話も耳にしていたから、当時のインターネットが安全だった、とは言い難い。 それでもインターネットは深夜

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    dododod 2014/01/17
  • 承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について - シロクマの屑籠

    先日の記事では、承認欲求が社会化されていくプロセス、熟練度がアップしていくプロセスについてまとめた。今回は、承認欲求、とりわけ思春期前半の逸脱しやすい承認欲求が罵倒されたり排除されたりしやすい社会情況と、その問題について振れてみる。 昨今、思春期前半の承認欲求が馬鹿にされたり、批判に曝されたりする機会が増えたように思う。 わかりやすいところでは、中二病を馬鹿にする風潮だ。いい歳した大人の中二病が揶揄されるのはまだわかる。だが十代の若者の不器用なレクリエーションまでもが、「中二病は恥ずかしいもの」「中二病はネタ」的な括りで取り扱われていて、そういうメタ情報が学生にまで周知されている。中二病のかけがえのなさを讃える声が無いわけではないが、そのような声は、中二病を笑いものにする声に比べて大きいとは言い難い。 くわえて、ネット炎上の問題が新たに加わった。2013年は、若者の“武勇伝”や“仲間内を意

    承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について - シロクマの屑籠
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    dododod 2014/01/16
    よしここでAURAだ
  • 承認欲求の社会化レベルが問われている - シロクマの屑籠

    前回示したように、承認欲求そのものを叩くことに意義は無い。だが、承認欲求の充たし方、承認欲求にモチベートされて行う行動には、是非や可否が伴う。 承認欲求が充たしたいからといって劇場型犯罪を犯して良いわけがない。 承認欲求が充たすために通勤電車で楽器を弾く行為もまずいだろう。 承認欲求を充たしたい気持ちが嵩じて「ありのままの自分を全部受け止めて欲しい」と異性に望む人は、是非に関わらず、たぶんパートナーシップが長続きしない。 つまり、承認欲求をモチベーションにすること自体はオーケーとしても、社会的に妥当な充たし方かどうか、年齢相応の水準で充たしたがっているかどうかは常に問題になる。 承認欲求の社会化レベルが問われているのである。 幼児〜成人に求められる、承認欲求の社会化レベル 前回も述べたように、承認欲求は幼い時期から認められる、おそらく生得的な欲求だ。二歳〜三歳の頃から承認欲求は認められ、老

    承認欲求の社会化レベルが問われている - シロクマの屑籠
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    dododod 2014/01/13
    ”承認欲求は超克するものではない。洗練させていくものだ”
  • 承認欲求そのものを叩いている人は「残念」 - シロクマの屑籠

    なぜ承認欲求と自己愛が問題になるのか? - デマこい! リンク先に書いてあるように「承認欲求や自己愛は人間の基的な心理的欲求」であり、それそのものをバッシングするのは人間の基的性質をバッシングするに等しい。ところが今日のインターネットでは、承認欲求という言葉が罵倒語としてしばしば用いられている。 どうして、承認欲求(笑)として叩かれてしまうのか? 承認欲求がバカにされる社会とはどういう社会で、その社会はどのような個人を生みだし得るのか? このあたりについて、書き溜めてあった4つのブログ記事を順番にアップロードする。 承認欲求は、現代人の重要なモチベーション源 承認欲求という言葉は、アメリカの心理学者アブラハム・マズローが使った言葉で、彼の欲求段階説のなかでは生理的欲求、安全欲求、所属欲求、自己実現欲求と並んで基的な人間のモチベーションのひとつとして紹介されている。以下に、マズローの著

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    dododod 2014/01/09
    ”承認欲求がバカにされる社会とはどういう社会で、その社会はどのような個人を生みだし得るのか?”
  • 「きっと何者にもなれない時代」の平凡と「あらかじめ何者かが強制された時代」の平凡 - シロクマの屑籠

    以前、深夜アニメで「きっと何者にもなれないお前達に告げる」という台詞が出てきて、ちょっとした人気を博していた。「きっと何者にもなれないお前達」という台詞がインパクトをもって受け止められたということは、多くの視聴者が「何者かになりたい」自意識を抱えていたのだろう。それとも「何者かにならなければならない」けれども「何者にもなれそうにない」と思っていたか。 「きっと何者にもなれない」という台詞には、「お前はまだ何者でもない」という含意がある。何者かになろうと思っているうちは、何者でもないのだ。自分というものにカタチがない。心理学っぽい表現を心がけるなら「アイデンティティ拡散」「アイデンティティの確立途上」といった表現になるかもしれない。 今日、「何者かになりたい/なれない」と問う人は、しばしば、気宇壮大な何者かをイメージしている。「何者かになる/ならない」問題に拘っている人のうち、一般的な仕事

    「きっと何者にもなれない時代」の平凡と「あらかじめ何者かが強制された時代」の平凡 - シロクマの屑籠
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    dododod 2014/01/01
  • もし「第三のブログ」があるとしたら - シロクマの屑籠

    2013年の秋から12月にかけて、はてなブロゴスフィア、特にはてなブログ周辺では「サードブロガー」という新語を巡って様々な言葉が飛び交っていた。あまり巻き込まれたくない話題だったので静観していたけれど、そろそろ話題として落ち着いたようにみえるので、自分の所感をまとめる。 「サードブロガーより第三のブログっぽいブログ」とは 私の「サードブロガー」という新語に対する印象は、こちらとそれほど違わない気がする。ただ、全くイコールというわけでもなさそうなので私見を書くと、 1.PVや影響力を第一とするアルファブロガー的価値体系とは無縁で 2.数多のブログサービスで無数に綴られる日記的ブログや、お隣さん同士で「拍手」をつけあい「あしあと」を気にしあうような、プライベート的ブログとも違う そうしたものを持ち合わせてはじめて「第三のブログ」たり得るとのではないかと思っていた。 ところが、「サードブロガー」

    もし「第三のブログ」があるとしたら - シロクマの屑籠
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    dododod 2013/12/27
    うわわぁ
  • 十年越しの「データベース消費」と私 - シロクマの屑籠

    動物化するポストモダン オタクから見た日社会 (講談社現代新書) 作者: 東浩紀出版社/メーカー: 講談社発売日: 2012/09/28メディア: Kindle版購入: 2人 クリック: 2回この商品を含むブログ (3件) を見る いつかまとめようと思ったけれども、今朝は早起きしたので書く。 昔、哲学者の東浩紀さんは美少女キャラクター消費とか、そういうオタク界隈についての考察を幾つも書いてらっしゃって、私は好んで読んでいた。『CLANNADは人生』とか仰っていた頃の東さんの文章にシビれたものだ。 そのなかでも好きなは『動物化するポストモダン』だ。そこに記載されている、「キャラクターのデータベース消費」の説明が、当時のキャラ萌え、特にゲーム*1に登場する美少女キャラクター萌えや、同人誌の消費形態にフィットしていると感じた。 「キャラクターのデータベース消費」についてものすごく大雑把な説明

    十年越しの「データベース消費」と私 - シロクマの屑籠
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    dododod 2013/12/08