関東学院大学経済学部総合学術論叢『自然・人間・社会』第52号、2012年1月 マニラ戦とベイビューホテル事件 林 博史 日本軍による集団強かん事件について、調べたものです。地図は省略しました。 2012.4.15記 はじめに マニラ戦は、1945年2月3日より3月3日までの1か月間続いた日米両軍による市街戦である。この戦闘によって、マニラ市街は徹底的に破壊され、マニラ市民約10万人が犠牲になった。日米両軍の戦闘行為、特に米軍の砲爆撃による被害が大きかったことも指摘されているが、フィリピンにおいてこのマニラ戦をとりわけ有名にしているのが、その中でおこなわれた日本軍の数多くの残虐行為である。キリスト教の聖職者を含めアメリカ、イギリス、フランス、スペイン、スイス、ロシア、ドイツ、イタリアなどの市民、そしてフィリピン市民が組織的意図的に虐殺される事件がマニラ市内の各所で頻発した。男たちだけでなく女
印刷 細菌戦を行ったとして記されていた場所と「効果」掲載されていた細菌作戦の一覧表=陸軍軍医学校防疫研究報告第1部第60号「PXノ効果略算法」から 旧日本陸軍が1940〜42年、中国で細菌兵器を使用していたことを示す陸軍軍医学校防疫研究室の極秘報告書が見つかった。細菌兵器の使用は93年に見つかった陸軍参謀の業務日誌にも記述があるが、細菌戦に直接携わった研究室の公的文書でも裏付けられた。 旧日本軍の細菌戦については中国人遺族らによる損害賠償訴訟で東京地裁、高裁とも事実と認定したが、日本政府は「証拠がない」との見解を示している。 この文書は「陸軍軍医学校防疫研究報告」のうち第1部の「PXノ効果略算法」。市民団体「731・細菌戦部隊の実態を明らかにする会」(事務局・東京)のメンバーが、国立国会図書館関西館(京都)で見つけた。 関連リンク中国の731部隊跡地に謝罪の碑 日本人の募金で設置(7
すでに一部を紹介した秦郁彦、『昭和史の謎を追う』(上下、文春文庫)から、いくつか紹介。 まずは第17章「マレーシア虐殺報道の奇々怪々」。章題からは虐殺の存在に懐疑的であるかのような印象を受けるが、実際にはそのようなことはない(犠牲者数について諸説あることは指摘されているが)。それより興味深いのが、林博史によって発掘された第五師団歩兵第十一連隊第七中隊の陣中日誌が紹介されているところ。中国戦線で戦った部隊の戦闘詳報、陣中日誌にも捕虜の殺害や、敵性住民のうち子供と老人を除く男性を殺害したことについてはしばしば記載があるが、第一大隊からの命令による1942年3月、ネグリセンビラン州における「討伐」では、「鉄道線路及線路の両側500米以外の支那人及英国人は老若男女を問わず徹底的に掃蕩す」、と記載されているというのである(427頁、仮名遣いを改めた)。陣中日誌に記載されている以上、現場の暴走ではなく
江南殲滅作戦における日本軍による虐殺事件 - 誰かの妄想・はてな版の続き的な話。 廠窖虐殺事件は日本語読みなら「しょうこうぎゃくさつじけん」でしょうが、日本ではあまり知られていません。中国側では「廠窖惨案/厂窖惨案」、英語だと「Changjiao massacre」となります。 犠牲者数は3万人と言われ、その内訳は、廠窖及び近隣住民1万3000人、それ以外の地域から避難してきた難民が1万2000人、駐留していた国民党軍第73軍の兵士5000人*1。 もちろん、南京大虐殺と同様に、廠窖及びその近辺で生じた数百人、数千人規模の多数の虐殺事件の総称が、「廠窖惨案」であって、何も3万人を一箇所に集めて一斉に殺したわけではありません。 虐殺を行った日本軍部隊 江南殲滅作戦の司令官は第11軍司令官の横山勇中将で、戦後中国側は廠窖虐殺事件での戦犯訴追を求めたようですが、既に九州大学生体解剖事件などで逮捕
岡田外相は13日昼、第2次世界大戦中に日本軍がフィリピン・ルソン島で米軍などの捕虜約7万人を約100キロ歩かせ、多くの死者を出したとされる「バターン死の行進」で生き残った元米兵捕虜らと外務省で面会し、外相として初めて公式に謝罪した。 岡田氏は「非人道的な扱いを受け、ご苦労され、日本政府代表として、外相として、心からおわび申し上げます」と述べた。 岡田外相の謝罪に対し、日本原水爆被害者団体協議会の田中煕巳事務局長は「バターン死の行進については日本軍が米兵捕虜だけに非人道的扱いをしたかは評価がわかれている。米国が原爆投下などについて謝罪していない段階で、一方的に日本だけ謝罪する必要はない」と批判した。
【スレブレニツァ共同】ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中の1995年、イスラム教徒ら6千人以上がセルビア人勢力に殺されたボスニア東部スレブレニツァの虐殺事件から今月で15年を迎え、犠牲者の埋葬式典が11日、現地で開かれた。第2次大戦後、欧州最悪の虐殺となったが、遺体捜索が今も続くなど事件の傷跡は地域に深く刻まれている。 スレブレニツァの記念墓地には、周辺の山中などで見つかり、DNA鑑定で身元確認された約4千人の遺体がこれまでに埋葬された。今年は新たに身元が判明した775人のひつぎが次々と埋められ、遺族から泣き声が漏れた。 95年、セルビア人武装勢力はスレブレニツァを包囲し、男性を女性と子供から引き離した上で殺害した。武装勢力は遺体を重機で損壊した上で分散して埋めるなど隠滅工作を行ったため、捜索が難航。事件を指揮したとされるセルビア人勢力の軍司令官ムラディッチ被告は逃走中だ。 オバマ米大統領は式
前の記事 ロールスロイス低価格路線へ:無料アプリも 「iPadに勝つタブレット」を作る方法 次の記事 米無人機の空爆は戦争犯罪か:米議会公聴会の議論 2010年5月10日 国際情勢 コメント: トラックバック (0) フィード国際情勢 Nathan Hodge and Noah Shachtman Photo: U.S. Department of Defense 米国は、正式な宣戦布告を行なわないまま無人機でパキスタンへの空爆を行ない、「テロリストをターゲットにした攻撃」を行なっている。 この種の攻撃は、ブッシュ政権後期から激化し、オバマ政権下でもその傾向は増大している。かつては攻撃対象となるテロリストの名前が必要だったが、現在では名前も必要とされていない。[民間人の犠牲も多いとされ、2008年以降、パキスタンでは121回の空爆で1000人近くが死亡していると推測されている。2004年か
YOMIURI ONLINE 2010年4月7日 「「カチンの森事件」追悼集会で70年後の和解」(魚拓) 【モスクワ=貞広貴志】第2次世界大戦中の1940年にソ連の秘密警察が捕虜のポーランド軍将校ら約2万2000人を虐殺した「カチンの森事件」から70年を迎え、追悼集会が7日、ロシア西部スモレンスク郊外で行われた。集会には、プーチン露首相とポーランドのトゥスク首相が初めてそろって出席、慰霊碑の前でひざまずき、緊張が続いた両国関係の歴史的和解に一歩をしるした。 強調は引用者。 毎日jp 2010年4月8日 「カチンの森事件:発生70年 ロシアとポーランド、両首脳そろい追悼」(魚拓) 【モスクワ大木俊治】第二次大戦中にポーランドの軍人ら2万人以上が旧ソ連で虐殺された「カチンの森事件」から70年に合わせた犠牲者追悼式が7日、現場であるロシア西部スモレンスク州の追悼施設で開かれた。ロシア主催の式典に
[サッカー女子・アルビ新潟L]今季無敗のホーム!士気も高い!強敵倒しタイトル獲得に弾みを・3月10日、日テレ東京V戦
スリランカ北部のジャフナ(Jaffna)半島で、反政府武装勢力「タミル・イーラム解放のトラ(Liberation Tigers of Tamil Eelam、LTTE)」との戦闘の「最前線」となっているNager Kovil地区を巡回する政府軍兵士(2008年4月6日撮影、資料写真)。(c)AFP/Lakruwan WANNIARACHCHII 【1月8日 AFP】英国のテレビ局が放映したスリランカ政府軍が捕虜となった反政府武装勢力「タミル・イーラム解放のトラ(Liberation Tigers of Tamil Eelam、LTTE)」の戦闘員を処刑する映像について、国連(UN)特使は7日、本物と断定し、処刑の経緯に関する公平な調査をスリランカ政府に求めた。 映像は、スリランカ内戦時に政府軍が、LTTEを制圧しかけていたころに撮影されたもの。英テレビ、チャンネル4(Channel 4)が
(CNN) ナチス戦犯としてドイツが逮捕状を出し、米国から移送されたジョン・デムヤンユク容疑者(89)が12日朝、ドイツ・ミュンヘンに到着した。第二次世界大戦中の1943年に、ポーランドのソビボール強制収容所で約2万9000人の殺害に関与した疑いが持たれている。 ウクライナ出身のデムヤンユク容疑者は、当時のポーランドにあった強制収容所の看守として、ユダヤ人の大量虐殺に関与したとされる。その凶暴性から「イワン雷帝」と呼ばれていたが、米国に居住していた1980年代にイスラエルで裁判を受け、いったんは死刑判決となったものの、最高裁で逆転無罪を勝ち取り、90年代に米国に戻っていた。 ベルリン当局が逮捕状を出したことから、ドイツへ移送されることになったが、同容疑者は高齢であり健康上の理由から移送拒否を申し立てていた。しかし、ベルリンの裁判所は移送中止請求を退け、米国の最高裁判所も同様の判断を下した。
【撫順(中国遼寧省)=西村大輔】中国遼寧省の平頂山村で1932年に旧日本軍が村民を虐殺したとされる平頂山事件で、民主党議員有志を代表して相原久美子参院議員が5日、同省撫順市で事件の生存者3人と面会し、公式の謝罪などを日本政府に求めていくことを約束した。 抗日ゲリラによる襲撃の報復として旧日本軍が住民を銃殺した事件は、犠牲者が800人とも3千人ともいわれる。生き残った3人が96年、日本政府に6千万円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴、最高裁まで争ったが06年に敗訴した。 このため生存者と弁護団は日本政府に対し、賠償を求めない形で(1)公式な謝罪(2)犠牲者を供養する記念碑などの設置(3)事実を究明し後世に伝える――を求めることを決め、民主党議員24人の協力を取り付けた。 相原議員は生存者の前で「日本政府が謝罪もせず、申し訳ない気持ちでいっぱいです。真の安定した日中関係を築くには戦後補償問
米テレビ局CBSが放送した、米オハイオ(Ohio)州セブンヒルズ(Seven Hills)の自宅から、米移民当局の係官によって運び出されるJohn Demjanjuk容疑者の映像(2009年4月14日撮影)。(c)AFP/CBS 【4月15日 AFP】(一部訂正)米連邦控訴裁判所は14日、第2次世界大戦中にナチス(Nazi)の強制収容所で看守を務めユダヤ人数万人の殺害に関与した疑いでドイツの裁判所から逮捕状が出ている、米オハイオ(Ohio)州在住のジョン・デムヤンユク(John Demjanjuk)容疑者(89)について、米当局に対し、強制送還の執行停止を命じた。裁判所決定は、米当局が同容疑者を車イスに乗せドイツに送還しようとした直後に出された。 同容疑者は14日未明、米連邦控訴裁判所に対し、ドイツへの身柄引き渡しを阻止するための、国外追放処分の差し止めを求めていた。控訴裁判所は「国外追放
米ホワイトハウスで、アンデス特恵貿易法(Andean Trade Preference Act)の延長に関する調印を待つコンドリーザ・ライス(Condoleezza Rice)米国務長官(当時、2008年10月16日撮影)。(c)AFP/SAUL LOEB 【4月23日 AFP】米上院情報特別委員会(Senate Select Committee on Intelligence)は、ブッシュ前政権下の米当局が、「水責め」など過酷な尋問方法を拘束したテロリスト容疑者らに対して用いた問題で、米中央情報局(Central Intelligence Agency、CIA)が過酷な尋問の使用を追求し始めたのは2002年5月で、導入を後押しする重要な承認は、当時のコンドリーザ・ライス(Condoleezza Rice)国務長官が与えていたと報告した。 同委員会は22日に発表した報告書で時系列に沿って、
ルワンダでのツチ族虐殺事件から15年が経過した。100日間にわたる虐殺行為のあいだには、多くの女性たちが性暴力の被害を受けている。被害者の数は、25万人から50万人といわれる。被害者(サバイバー)たちは、いまだに心身ともに深い傷を抱え続けており、差別よる社会的孤立等にも苦しんでいる。さらに、性暴力被害者(サバイバー)の約70パーセントは、HIVに感染しているという。 ルワンダの性暴力被害者(サバイバー)の経験が“The Men Who Killed Me: Rwandan Survivors of Sexual Violence ”という本にまとめられ、出版された(“Rwanda's rape victims-15 years on ”Radio Netherlands2009年4月7日付Michelle Dobrovolny記者によるインタビュー記事。なお、4月7日は、ルワンダでジェノサ
CsPR レクチャー・シリーズ 第7回 2007.12.7 科学研究費補助金(基盤 B) 「マニラ戦の実像と記憶」第3回研究会 南京事件とマニラ戦──真実と和解の模索── プログラム 10:30am – 12:30pm 映像資料の上映とディスカッション (司会・中野聡/一橋大学社会学研究科教授) 13:00pm – 14:30pm マニラ戦とその記憶 (中野聡) 14:45pm – 16:15pm スペインとアジアにおける第二次世界大戦 (フロレンティーノ・ロダオ/マドリード・コンプルテンセ大学教授) 16:30pm – 18:00pm 世界から見た南京事件 (笠原十九司/都留文科大学教授) 映像資料の紹介 NHK 放映(BS Hi 2007/8/5 19:00-20:50) 「証言記録 マニラ市街戦〜死者 12 万人 焦土への一ヶ月〜」 (株)バサラが 制作/担当ディレクター
【エルサレム=井上道夫】イスラエル軍によるパレスチナ自治区ガザへの攻撃をめぐり、人権問題などを調査していた国連事務総長特別代表のラディカ・クマラスワミ氏が23日、ジュネーブで開催中の国連人権理事会で、イスラエル軍がパレスチナ人の少年を「人間の盾」として利用したと報告した。ロイター通信などが伝えた。 クマラスワミ氏は2月にガザで現地調査を実施。その結果、イスラエル軍がガザ市南部に侵攻した1月15日、11歳のパレスチナ人少年に軍の前方を歩くよう命じ、建物にも先に入らせるなど「盾」として利用した事例があったとした。爆発物の有無などを調べるため、複数のパレスチナ人のカバンを少年に開けさせたりもしたという。 また、母子が残る家屋をブルドーザーで破壊したり、住民を建物に移動させた後に砲撃を加えたりした事例もあるとし、「イスラエル軍の『違反』があまりに多すぎる」と述べた。 同氏は一方で、ガザを支配
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