序曲、風立ちぬ「改造」1936(昭和11)年12月号、冬「文藝春秋」1937(昭和12)年1月号、春「新女苑」1937(昭和12)年4月号、死のかげの谷「新潮」1938(昭和13)年3月号
芥川の死について、いろいろな事が、書けそうで、そのくせ書き出してみると、何も書けない。 死因については我々にもハッキリしたことは分らない。分らないのではなく結局、世人を首肯させるに足るような具体的な原因はないと言うのが、本当だろう。結局、芥川自身が、言っているように主なる原因は「ボンヤリした不安」であろう。 それに、二、三年来の身体的疲労、神経衰弱、わずらわしき世俗的苦労、そんなものが、彼の絶望的な人生観をいよいよ深くして、あんな結果になったのだろうと思う。 昨年の彼の病苦は、かなり彼の心身をさいなんだ。神経衰弱から来る、不眠症、破壊された胃腸、持病の痔などは、相互にからみ合って、彼の生活力を奪ったらしい。こうした病苦になやまされて、彼の自殺は、徐々に決心されたのだろう。 その上、二、三年来、彼は世俗的な苦労が絶えなかった。我々の中で、一番高踏的で、世塵を避けようとする芥川に、一番世俗的な
一 大震雑記 一 大正十二年八月、僕は一游亭(いちいうてい)と鎌倉へ行(ゆ)き、平野屋(ひらのや)別荘の客となつた。僕等の座敷の軒先(のきさき)はずつと藤棚(ふぢだな)になつてゐる。その又藤棚の葉の間(あひだ)にはちらほら紫の花が見えた。八月の藤の花は年代記ものである。そればかりではない。後架(こうか)の窓から裏庭を見ると、八重(やへ)の山吹(やまぶき)も花をつけてゐる。 山吹を指(さ)すや日向(ひなた)の撞木杖(しゆもくづゑ) 一游亭 (註に曰(いはく)、一游亭は撞木杖をついてゐる。) その上又珍らしいことは小町園(こまちゑん)の庭の池に菖蒲(しやうぶ)も蓮(はす)と咲き競(きそ)つてゐる。 葉を枯れて蓮(はちす)と咲ける花あやめ 一游亭 藤、山吹、菖蒲(しやうぶ)と数へてくると、どうもこれは唯事(ただごと)ではない。「自然」に発狂の気味のあるのは疑ひ難い事実である。僕は爾来(じ
広島市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。編集プロダクション勤務を経て、ライターに。ノンフィクションのさまざまな分野を取材対象としてきたが、次第にパーソナルコンピューターの比重が高まる。ボイジャーのエキスパンドブックを見て電子出版の可能性を本気で信じ込むようになり、「パソコン創世記」と名付けたタイトルを、コンピューターで読むことを前提に制作。このブック上の記述を、インターネット上のさまざまなホームページにリンクさせていくという作業を体験してからは、電子本への確信をさらに深めている。 紙で出してきた著書に、「パソコン創世記」(旺文社文庫版、TBSブリタニカ版)、「宇宙回廊 日本の挑戦」(旺文社)、「電脳王 日電の行方」(ソフトバンク)、「青空のリスタート」(ソフトバンク)、「本の未来」(アスキー)がある。
夢を尊重せよ。われらの陸海軍は皇国(こうこく)三千年の夢を実現しつつあるではないか。偉大なる夢と月々火水木金々の努力、斯(か)くして偉大なる現実は生れるのだ。夢無くして科学は無い。科学の進歩は天才の夢に負う所如何に多大であるか。科学史の毎頁(まいページ)がこれを証明している。現実に先行する夢なくして現実の進歩はない。今や完全なる勝利か、然(しか)らずんば国民一人残らずの死あるのみである。眼前の現実に跼蹐(きょくせき)して、徒(いたず)らに物資の不自由を喞(かこ)つことをやめよ。卑小なる保身を離れて、偉大なる夢を抱け。私は一つの夢を語ろうとする。無論、昔日(せきじつ)の悪夢を語るのではない。昔日の悪夢は悉(ことごと)くかなぐり捨て、私の力の許す限りに於(おい)て、大いなる正夢を語ろうとするのである。 世界の国という国がその総力をかたむけ、大地球の全面をゆるがして戦いつつある時、日本国の威力が
長い管の中へ、水素と酸素とを適当な割合に混合したものを入れておく、そうしてその管の一端に近いところで、小さな電気の火花を瓦斯(ガス)の中で飛ばせる、するとその火花のところで始まった燃焼が、次へ次へと伝播(でんぱ)して行く、伝播の速度が急激に増加し、遂にいわゆる爆発の波となって、驚くべき速度で進行して行く。これはよく知られた事である。 ところが水素の混合の割合があまり少な過ぎるか、あるいは多過ぎると、たとえ火花を飛ばせても燃焼が起らない。尤も火花のすぐそばでは、火花のために化学作用が起るが、そういう作用が、四方へ伝播しないで、そこ限りですんでしまう。 流言蜚語(ひご)の伝播の状況には、前記の燃焼の伝播の状況と、形式の上から見て幾分か類似した点がある。 最初の火花に相当する流言の「源」がなければ、流言蜚語は成立しない事は勿論であるが、もしもそれを次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が存在しなけれ
これは、今から四十六年前、私が、東京高等商船学校の実習学生として、練習帆船琴(こと)ノ緒(お)丸(まる)に乗り組んでいたとき、私たちの教官であった、中川倉吉(なかがわくらきち)先生からきいた、先生の体験談で、私が、腹のそこからかんげきした、一生わすれられない話である。 四十六年前といえば、明治三十六年、五月だった。私たちの琴ノ緒丸は、千葉県の館山湾(たてやまわん)に碇泊(ていはく)していた。 この船は、大きさ八百トンのシップ型で、甲板から、空高くつき立った、三本の太い帆柱には、五本ずつの長い帆桁(ほげた)が、とりつけてあった。 見あげる頭の上には、五本の帆桁が、一本に見えるほど、きちんとならんでいて、その先は、舷(げん)のそとに出ている。 船の後部に立っている、三木めの帆柱のねもとの、上甲板に、折椅子(おりいす)に腰かけた中川教官が、その前に、白い作業服をきて、甲板にあぐらを組んで、いっし
小説家。本名は弥之助(やのすけ)。東京都羽村市生まれ。父の家業不振のため苦しい少年時代を送る。小学校高等科卒業後上京。電話交換手からのち小学校教員となる。この間、キリスト教と社会主義の影響を受ける。1905(明治38)年、白柳秀湖(しらやなぎしゅうこ)らと雑誌「火鞭」(かべん)を創刊。同誌に短編「笛吹川」を発表。翌年「都新聞」入社。1909(明治42)年、同紙への連載小説「氷の花」をかわきりに「高野の義人」など数々の作品を掲載。1913(大正2)年「大菩薩峠」の連載を「都新聞」で開始。本作はこの後、掲載紙を変えながら断続的に1941(昭和16)年まで書き継がれる。しかし長大な作品(四十一巻)は作者の後半生を呑み込み、なお未完に終わる。1919(大正8)年「都新聞」退社。旺盛な執筆活動を続けながら、道場や私塾経営のほか「隣人之友」をはじめ各種雑誌の発行を手がける。生涯を通じトルストイの影響を
ここでは、2018年12月30日の著作権法改正によって著作権保護期間の延長された作家名の一部を、昭和の終わりまでの20年分、簡易的な一覧にしています。(参考:「死せる作家の会」) 著作権法改正によって、従来の保護期間である死後50年は死後70年へと延長されました。そのため、たとえば1968年に亡くなった作家の作品がパブリック・ドメインになるのは、2039年の元旦になります。 今回の保護期間延長が遡って適用されることはありません。そのため、1967(昭和42)年以前に亡くなった作家の著作権は復活しません。すでに著作権保護期間が満了している作家については、「著作権の消滅した作家名一覧」をご参照下さい。 【1968(昭和43)年没】 足立勇(1901年11月2日~1968年1月11日) 石田英一郎(1903年6月30日~1968年11月9日) 内山順(1890年~1968年) 大原總一郎(190
カテゴリー:青空文庫 | 投稿者:OKUBO YuAuthor: OKUBO Yu About: 青空文庫には高校生のとき参加して、今や翻訳家・翻訳研究者。しばらく青空文庫をお休みするつもりだったのにそうも言ってられなくなってしまっててんてこまいの日々。ここでは電子本のことをしゃべったり、物語を書き散らしたり、はたまた青空文庫批判をしてみたり、自由にやっていくつもり。See Authors Posts (55) | 投稿日:2017年10月1日 | 表には出していないのですが、実は例年、ボランティア作業のために、年末が近付くと翌年にパブリックドメインする作家たちのリストを簡易的に作っておりました。年々、情報は共有しなくちゃと思いつつ、なかなかできていなかったのですが、今回はあえてオープンにしようと思います。 2018年の年始からパブリックドメイン入りする作家のリストは、以下の通り。 ■現在
八月二十四日の真夜中、当分杜絶(とぜつ)になるという最後の連絡船に乗って本州へ渡った。 船は樺太(からふと)からの引揚民(ひきあげみん)で一杯であった。人々は折り重(かさな)って冷(つめた)い甲板上…
未(ま)だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠(さしこ)めて、真直(ますぐ)に長く東より西に横(よこた)はれる大道(だいどう)は掃きたるやうに物の影を留(とど)めず、いと寂(さびし)くも往来(ゆきき)の絶えたるに、例ならず繁(しげ)き車輪(くるま)の輾(きしり)は、或(あるひ)は忙(せはし)かりし、或(あるひ)は飲過ぎし年賀の帰来(かへり)なるべく、疎(まばら)に寄する獅子太鼓(ししだいこ)の遠響(とほひびき)は、はや今日に尽きぬる三箇日(さんがにち)を惜むが如く、その哀切(あはれさ)に小(ちひさ)き膓(はらわた)は断(たた)れぬべし。 元日快晴、二日快晴、三日快晴と誌(しる)されたる日記を涜(けが)して、この黄昏(たそがれ)より凩(こがらし)は戦出(そよぎい)でぬ。今は「風吹くな、なあ吹くな」と優き声の宥(なだ)むる者無きより、憤(いかり)をも増したるやうに飾竹(かざりだけ)を吹靡(ふきなび)
禅僧として各地を行乞の旅。旅のさなかに数多くの句を残した俳人。俳句は荻原井泉水に師事し、同門の尾崎放哉とともに「自由律」の句風で知られる。 「種田山頭火」 公開中の作品 赤い壺 (新字新仮名、作品ID:48234) 赤い壺(三) (新字新仮名、作品ID:48235) 赤い壺(二) (新字新仮名、作品ID:48236) 一草庵日記 (新字旧仮名、作品ID:50413) 英語対訳版草木塔抄他/Fire on the Mountain (新字旧仮名、作品ID:750) →三浦 久(翻訳者) →グリーン ジェイムズ(翻訳者) 片隅の幸福 (新字新仮名、作品ID:48237) 行乞記 01 (一)(新字旧仮名、作品ID:44913) 行乞記 02 三八九日記(新字旧仮名、作品ID:45386) 行乞記 03 (二)(新字旧仮名、作品ID:45387) 行乞記 04 (三)(新字旧仮名、
大河平一郎が学校から遅く帰って来ると母のお光は留守でいなかった。二階の上り口の四畳の室の長火鉢の上にはいつも不在の時するように彼宛ての短い置手紙がしてあった。「今日は冬子ねえさんのところへ行きます。夕飯までには帰りますから、ひとりでごはんをたべて留守をしていて下さい。母」平一郎は彼の帰宅を待たないで独り行った母を少し不平に思ったが、何より腹が空(す)いていた。彼は置かれてあるお膳の白い布片を除けて蓮根の煮〆に添えて飯をかきこまずにいられなかった。そうして四、五杯も詰めこんで腹が充ちて来ると、今日の学校の帰りでの出来事が想い起こされて来た。今日は土曜で学校は午前に退(ひ)けるのだった。級長である彼は掃除番の監督を早くすまして、桜の並樹の下路(したみち)を校門の方へ急いで来ると、門際で誰かが言いあっていた。近よってみると、二度も落第した、体の巨大な、柔道初段の長田が(彼は学校を自分一人の学校の
私は昨年九月四日、ニュウファウンドランド島の小さな山村、ヒルテイで行われた、ビジテリアン大祭に、日本の信者一同を代表して列席して参りました。 全体、私たちビジテリアンというのは、ご存知の方も多いでしょうが、実は動物質のものを食べないという考(かんがえ)のものの団結でありまして、日本では菜食主義者と訳しますが主義者というよりは、も少し意味の強いことが多いのであります。菜食信者と訳したら、或(あるい)は少し強すぎるかも知れませんが、主義者というよりは、よく実際に適(かな)っていると思います。もっともその中にもいろいろ派がありますが、まあその精神について大きくわけますと、同情派と予防派との二つになります。 この名前は横からひやかしにつけたのですが、大へんうまく要領を云(い)いあらわしていますから、かまわず私どもも使うのです。 同情派と云いますのは、私たちもその方でありますが、恰度(ちょうど)仏教
公開中の作品 赤いカブトムシ (新字新仮名、作品ID:57105) 赤い部屋 (新字新仮名、作品ID:57181) 悪魔の紋章 (新字新仮名、作品ID:57240) 悪霊 (新字新仮名、作品ID:57515) 悪霊物語 (新字新仮名、作品ID:58699) 「悪霊物語」自作解説 (新字新仮名、作品ID:59399) 暗黒星 (新字新仮名、作品ID:58333) 偉大なる夢 (新字新仮名、作品ID:57531) 一枚の切符 (新字新仮名、作品ID:57182) 一寸法師 (新字新仮名、作品ID:58053) 陰獣 (新字新仮名、作品ID:57503) 宇宙怪人 (新字新仮名、作品ID:56674) 江川蘭子 (新字新仮名、作品ID:58590) 黄金仮面 (新字新仮名、作品ID:57241) 黄金豹 (新字新仮名、作品ID:56678) 押絵と旅する男 (新字新仮名、作品ID:56645)
駅を出て二十分ほども雑木林の中を歩くともう病院の生垣(いけがき)が見え始めるが、それでもその間には谷のように低まった処や、小高い山のだらだら坂などがあって人家らしいものは一軒も見当たらなかった。東京からわずか二十マイルそこそこの処であるが、奥山へはいったような静けさと、人里離れた気配があった。 梅雨期にはいるちょっと前で、トランクを提(さ)げて歩いている尾田は、十分もたたぬ間にはやじっとり肌が汗ばんで来るのを覚えた。ずいぶん辺鄙(へんぴ)な処なんだなあと思いながら、人気の無いのを幸い、今まで眼深にかぶっていた帽子をずり上げて、木立を透かして遠くを眺(なが)めた。見渡す限り青葉で覆われた武蔵野で、その中にぽつんぽつんと蹲(うずくま)っている藁屋根(わらやね)が何となく原始的な寂蓼(せきりょう)を忍ばせていた。まだ蝉の声も聞こえぬ静まった中を、尾田はぽくぽくと歩きながら、これから後自分はいった
「学位売買事件」というあまり目出度(めでた)からぬ名前の事件が新聞社会欄の賑(にぎ)やかで無味な空虚の中に振り播(ま)かれた胡椒(こしょう)のごとく世間の耳目を刺戟した。正確な事実は審判の日を待たなければ判明しない。 学位などというものがあるからこんな騒ぎがもち上がる。だからそんなものを一切なくした方がよいという人がある。これは涜職者(とくしょくしゃ)を出すから小学校長を全廃せよ、腐った牛肉で中毒する人があるから牛肉を食うなというような議論ではないかと思われる。 こんな事件が起るよりずっと以前から「博士濫造」という言葉が流行していた。誰が云い出した言葉か知れないが、こういう言葉は誰かが言い出すときっと流行するという性質をはじめから具有した言葉である。それは、既に博士である人達にとっても、また自分で博士になることに関心をもたない一般世人にとっても耳に入りやすい口触わりの好い言葉だからである。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く