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『後醍醐天皇の真実、天皇制の危機』
後醍醐天皇の真実 上の資料で血統上、南朝、北朝どっちが正統かについて、視覚的に明らかです。後嵯峨天... 後醍醐天皇の真実 上の資料で血統上、南朝、北朝どっちが正統かについて、視覚的に明らかです。後嵯峨天皇から真っ直ぐに下した直線が正統ですから、北朝です。もともとは北朝、南朝の対立はありません。兄の系譜と弟の系譜で交互に皇位についていただけです。なぜそんなことをしたかについては別途にします。 対立が生じた原因は後醍醐天皇の不正にあります。天皇は大覚寺統の系譜でも直系ではありません。亀山ー後宇多ー後二条ー邦良親王の系譜が正統です。そのことも視覚的にわかります。本来であれば後醍醐天皇は皇位につけない人でした。後二条天皇が在位僅か8年、23歳の若さで崩御しました。そこで中継ぎの天皇として、まず持明院統の花園天皇が10年皇位につき、次に後醍醐天皇が父、後宇多天皇の遺言に従って皇位につきました。その遺言とは、後二条天皇の皇子、邦良親王が成人するまでの皇位であるということです。つまり、中継ぎ天皇であるとい
2016/05/13 リンク