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笠嶋はいづこ五月のぬかり道 - 芭蕉百句 100 haikus of Basho
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笠嶋はいづこ五月のぬかり道 - 芭蕉百句 100 haikus of Basho
かさしまはいづこさつきのぬかりみち 元禄2年(1689)5月4日、名取市愛島での作。芭蕉は、藤中将実方(... かさしまはいづこさつきのぬかりみち 元禄2年(1689)5月4日、名取市愛島での作。芭蕉は、藤中将実方(藤原朝臣左近衛中将実方)の塚を尋ね歩き、村人から「是より遥か右に見ゆる山際の里を、箕輪・笠島と云ひ、道祖神の社 ・形見の薄今にあり」と教えられるも、折からの五月雨で道も悪く、また、疲労も重なり、ついにその塚に辿り着くことなく後ろ髪を引かれる思いでその場を過ぎ去ったのである。 実方は和歌に優れ、中古三十六歌仙の一人に選ばれている。一説には『源氏物語』における光源氏のモデルともされている。 実方は藤原行成との些細な諍いから、一条天皇より勅勘を被り陸奥国へ左遷させられた。 ある時、任国の笠島道祖神前で、下馬すべきところをそのまま通ったことが原因で神罰が下り落馬し亡くなったとされる。 この非運な死を悼み、西行も「形見の薄」に実方を偲び「朽ちもせぬその名ばかりを留めおきて枯野の薄かたみにぞ見る」と