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日曜日記192・「国家」と「市民」の分離こそ - アリの一言
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日曜日記192・「国家」と「市民」の分離こそ - アリの一言
日本のメディアが流す映像がいかに偏向していても、ウクライナ市民の惨状は座視できない。悲しみと同時... 日本のメディアが流す映像がいかに偏向していても、ウクライナ市民の惨状は座視できない。悲しみと同時に怒りがわいてくるのは、人として当然だ。1日でも、1時間でも早い停戦を願う。戦争は絶対反対だとあらためて胸に刻む。 しかし、ここで大きな思考の屈折が生じる、つくられる。 ウクライナ市民への同情・連帯感がウクライナ国家(政府)への支持と一体化され、戦場の惨状への怒り、反戦の願いが、ロシアに対する憎悪に収斂されることだ。 戦争は国家権力同士の争いであり、一方的な侵略戦争(帝国日本の東アジア侵略のような)でない限り、その原因は双方にあり、犠牲は双方の戦闘によって生じる。停戦・和平は原因にさかのぼった双方の妥協なくしてはあり得ない。 一方的に片方を非難することは正当でないうえ、停戦・和平を遠ざける。それが、いまのウクライナの状況ではないだろうか。 そもそも、国家・軍隊は自国の「国民」を守らない。守らない