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岸田劉生と横山重 - 神保町系オタオタ日記
岸田劉生の没後八十周年ということで、美術雑誌では劉生やら麗子像の特集が組まれている。ところで、劉... 岸田劉生の没後八十周年ということで、美術雑誌では劉生やら麗子像の特集が組まれている。ところで、劉生の日記*1に横山という人が出てくる。 大正9年1月4日 横山といふ、鵠沼の四軒別荘にゐる文をやる人、宇野清之助[ママ]といふこの頃認められ出した文をやる若い人と一緒に来る。 1月12日 「午後気持なほしにと思ひ、四軒別荘の横山君を訪ぬ。宇野君も居たり。麗子をともなふ。麗子やうかんを頂きてよろこぶ。(略)」(廿一日思出して附記) この横山だが、『書物捜索』の横山重だった。同書にも劉生との出会いについて記されている*2が、「竹林抄古注「後記」」『横山重自傳(集録)』によると、 ちやうど、第一次の世界大戦の中期から、わたしは鵠沼の貸別荘に移り住んだ。アララギの仲間の宇野喜代之介が東大の独文を出て、しばらく私宅に来てゐて、小説を書いてゐた事から、彼の友人の舟木重信とも知り合ふやうになつた。彼の長兄の重