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アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ.25の途中まで その2 | さりはま書房ー徒然なる紙魚の虫食い痕
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アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ.25の途中まで その2 | さりはま書房ー徒然なる紙魚の虫食い痕
しかし、それは他の状況では強い嫌悪と怒りをともなうものである。しゃがれた怒声の荒々しさや、耳障り... しかし、それは他の状況では強い嫌悪と怒りをともなうものである。しゃがれた怒声の荒々しさや、耳障りな様は、離れたところから聞いていても、恐怖、あるいは嫌悪の情をいだかせるものである。痛みや苦痛に泣きさけぶ者のように、怒声にむかって飛んでいくのではない。男にしても、女にしても、神経の弱い者は震え、恐怖のあまり何もできなくなるが、自分自身が恐怖の対象ではないことには気がついている。恐怖を心にいだくのは、しかしながら、そう感じている人の状況に自分をおく場合である。勇ましい心の持ち主でさえ不安には思うが、怖がるほどのものではない。だが怒らせるには十分なものである。怒りとは、他の人の状況に身をおきかえた場合に、感じる情熱だからである。嫌悪も同様である。単なる悪意の表現には、誰も奮い立つことはない。だが悪意を表現する本人は奮い立つものである。もともと怒りにしても悪意にしても、どちらの感情も嫌悪される対象