JaLC IRDB Crossref DataCite NDL NDL-Digital RUDA JDCat NINJAL CiNii Articles CiNii Books CiNii Dissertations DBpedia Nikkei BP KAKEN Integbio MDR PubMed LSDB Archive 極地研ADS 極地研学術DB 公共データカタログ ムーンショット型研究開発事業
イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真 作者: ジョルジュ・ディディ=ユベルマン,Georges Didi-Huberman,橋本一径出版社/メーカー: 平凡社発売日: 2006/08/08メディア: 単行本 クリック: 99回この商品を含むブログ (38件) を見る その1→http://d.hatena.ne.jp/pilate/20121101/1351902708 その2→http://d.hatena.ne.jp/pilate/20121111/1352611492 その3→http://d.hatena.ne.jp/pilate/20121126/1353902809 http://d.hatena.ne.jp/nowherezen/20121207では、極めて詳細に引用文献に当たりながら、精読、精緻な議論を積み上げている。非常に考えさせられる。 【
半年くらい前に読んだ『イメージの前で』につづいて、二冊目のディディ=ユベルマンの著作(情けないことに『イメージの前で』の細かな内容は、論旨のおおまかなニュアンスを除いてあらかた記憶から消えてなくなった)。しかしこの本もやっぱりとてもおもしろかった。最近読んだばかりのアガンベンの『裸性』が神学的な思考とイメージに対する批判を展開するにあたってまさにそういうスタンスを取ってたんだけど、美術史の現在を問い直していまだ開かれたままの未来へと向けてこれを練り直そうとする美術史家ディディ=ユベルマンのここでの論考もまた、イメージに帯同する認識論的なアナクロニズムの必要性や不可避性といったものを執拗に説く内容になっている。 収録されたどの論考でも、一貫して歴史と美術のイメージに対するアナクロニズム的視座への強固な要請が急務の課題として問題化されてるわけだけど、対象と主題に応じて次々に介入の角度と深度を変
イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真 作者: ジョルジュ・ディディ=ユベルマン,Georges Didi-Huberman,橋本一径出版社/メーカー: 平凡社発売日: 2006/08/08メディア: 単行本 クリック: 99回この商品を含むブログ (38件) を見る (承前)『イメージ、それでもなお』その1→http://d.hatena.ne.jp/pilate/20121101/1351902708 ※だらだら書いてたら、長くなってしまい、そろそろ飽きてきたので、とりあえずp87まで。 【第1章の補足ツイート】 ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』第一章の締めの箇所の「閃光の時間」は、カメラのフラッシュ、ストロボのイメージなのかな、とか風呂の中で想像力を試していた。カメラの瞬きだとしたら、『イメージの前で』に瞬きについて論じてあったような。「大地
イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真 作者: ジョルジュ・ディディ=ユベルマン,Georges Didi-Huberman,橋本一径出版社/メーカー: 平凡社発売日: 2006/08/08メディア: 単行本 クリック: 99回この商品を含むブログ (38件) を見る こちらのレジュメに触発されてひとつ考えてみることにした。引用文献等に当たって講読を試みている。→http://d.hatena.ne.jp/nowherezen/20121027 少々乱暴ではあるが、思ったことをだだっと書いたツイートをまとめておく。 ※一部加筆・訂正 昨晩、ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』の「イメージ、すべてに抗して」の章まで読んだ。DHの著作を読むのはこれが三冊目。以下、まとまりのないメモ。テーマは、「『なにひとつ痕跡を残さない』こと、残りすべてを消滅させること」
note ■ 「視覚的対象のアカデミックな概念」[V] と「道徳主義的・法的な概念」[P] を分かつもの 分割線の詳悉(ヴァザーリ=V/プリニウス=P)(pp.56-78) 《参照》 分割線の概略 n°6 分割線 i , ii, iii n°7 『博物誌』の学術的な翻訳のいずれにおいても、imaginum piictura の二語は当然のように「肖像画」と訳されている。(…)「肖像画は[・・・]すっかり廃れてしまった」という美術史の観点からは明らかに事実と反する(…)。この難点を解きほぐすにあたって、(…)第一パラグラフから第十四パラグラフというこの文脈において、彼[=プリニウス]が imagiunm pictura でまったく別の事柄に言及しているのではないかとむしろ問うてみるべきなのだ。すると問題は次のように立て直される。通常の美術史という文脈では imaginum pitura は「
note ■ 「視覚的対象のアカデミックな概念」[V] と「道徳主義的・法的な概念」[P] を分かつもの 7本の分割線の詳悉(ヴァザーリ=V/プリニウス=P)(pp.56-78) i. 指標となる秩序:理念の秩序 [V] / 材料(マチエール)の秩序 [P] 「私の扱う素材は味気ないものだ。それは自然の事物であり、すなわち生活に関わる事柄であり、それも最も下々の部分である(sterili materia : rerum natura, hoc est vita, et haec sordidissima sui parte)。多くの対象を語るにあたって、田舎や外国の言葉や夷人の語彙までも使わねばならないのだ。」(Pline l'Ancien, Histoire naturelle, I, 12-13.) たとえばキケロとは似ても似つかぬこの「下々の」物質主義、あるいは「低級唯物論」
note (…)他のあらゆる「技芸」(農業、医学あるいは兵法)に同じく、法的・社会的世界と自然の質量(マチエール)と形相(フォルム)の世界に対し尊厳という関係を確立して初めて、絵画は意味をもつのである。この尊厳(dignitas)がプリニウスのいう「技芸」、「イメージ、「類似」の核心をなす。私の考えによれば、この尊厳こそが、ヴァザーリの卓越した概念──歴史、ルネサンス、模倣、美的教養、修辞的自由ないし発明など──と、プリニウスの道徳主義から導き出される概念──起源、死、刻印、公の儀式、尊厳、系譜の厳密な伝達など──を分かつ線を規定している。視覚的対象のアカデミックな概念と法的な概念が対峙する、このさまざまな分割線を検分する作業は、それが概略的なものであっても十分に意義深いだろう。(p.56) *** "C'est-à-dire que l
note 第一部 アナクロニズムの考古学 〇第一章 原型 − イメージ 美術史、そして類似の系譜学(pp.53-76) 美術史が扱うもの:論理的選択の基づく(類似の)関係 関係こそが美術史の対象(「イメージ」や「肖像」など)に生命や意味を与える 類似という関係:美術史を超過してしまうほど本質的なものであり、対象や形象の理解に基本的な立場を保証、美術史の認識領野を支える (…)美術史が言説として成立するまさにその時点において、この類似なる関係の内容を評価する必要があるだろう。この時点とはどの時点であろうか。それはある一つの時点ではありえず、むしろ複数の時点からなる体系であることを、とおりあえず確認しておこう。他の分野でも同じことだが、この分野における「原初的な起源」の探求などはやめておこう。絶対的な源泉など存在しない。形象芸術を論じたギリシア文献はいまやほとんど残っていな
note 関心を払うに値する歴史は、年代学とアナクロニズムのモンタージュ、律動的な戯れ、コントルダンスのなかにもみ存在すると思われる。(p.34) それぞれの歴史的対象において、あらゆる時間が出会うこと、衝突しあい、あるいは可塑的に基礎づけあうこと、分岐しあい、あるいはもつれあうことを理解しなければならないのである。(p.38) ◇ アナクロニズムの星座──われわれの時代を前にしての美術史(本書における3名の中心的登場人物) ・アビ・ヴァールブルク ・・・「残存 Nachleben」 ・ヴァルター・ベンヤミン ・・・「根源」 ・カール・アインシュタイン ・・・「近代性」 ラカンの時代の精神分析は、フロイトの再読ないしは「フロイトへの回帰」から出発して、自分自身の認識論敵な変化を再定義しなければならなかった。美術史はそれと同じ緊急性をもって、この認識論的変化に立ち戻る義務を負っ
note 前々回のエントリーの最後のほうで言及したジョージ・キューブラー "The shape of time" について、大阪市立大学中谷礼仁先生のゼミで2003年に北浦千尋さんという方が書いた修士論文概要。 北浦千尋「ジョージ・キューブラー著『The shape of time』における連鎖的思考とその現在における有効性」 http://www.nakatani-seminar.org/kozin/syuuronn_kougai/kitaura.pdf 早稲田大学 中谷礼仁建築史研究室 http://www.nakatani-seminar.org これまでの成果物 http://www.nakatani-seminar.org/kozin/welcome1.html 2003年当時もキューブラーの翻訳が日本では皆無だと書かれているが、2012年現在もその状況は変わっていないようで
note (ちょうどドゥルーズの『シネマ1』と『シネマ2』のように)『時間の前で』(2000)が第二部であるならば、第一部はカント−ヴァザーリ−パノフスキーへの批判を土台とし、精神分析や「徴候」、「受肉」といったディディ=ユベルマンの用語によってデュオニソス的なイメージの多重性が語られる『イメージの前で』(1990)である。そこにおいてディディ=ユベルマンの考究の支持体となったのが、フラ・アンジェリコ《影の聖母》の下部の色面であるのだが、『イメージの前で』の出版から10年を経た後にようやく世に出た本書においても、その考拠する支持体の重要性はなおも引き継がれている(ちなみに、『時間の前で』につづく第三部は『残存するイメージ』)。 われわれは、ここで色面を前にすることで、実は複合的な時間、不純な時間の対象を前にしている。アナクロニズムを形成する異質な時間の驚くべきモンタージュ。このモンター
note 〈目次〉 序論 開け──アナクロニズム的学問としての美術史 イメージの前で──時間の前で パラドクスと呪われた部分 あらゆる歴史はアナクロニズム的である──モンタージュ あらゆる歴史はさまざまなアナクロニズムからなる──徴候 アナクロニズムの星座──われわれの時代を前にしての美術史 第一部 アナクロニズムの考古学 第一章 原型‐イメージ 美術史、そして類似の系譜学 美術史はつねに二度始まる 大プリニウス──「類似は死んでいる」 顔の痕跡、法の痕跡 生成による類似と置換による類似 渦巻きとしての起源 第二章 悪意‐イメージ 美術史、そして時間という難問 美術史はつねに再び開始されねばならない ヴァルター・ベンヤミン──記憶の考古学者にして屑拾い イメージは残存する──歴史は解体される モンタージュによる認識 万華鏡と難問──「時
四六判 / 352ページ / 上製 / 価格 4,180円 (消費税 380円) ISBN978-4-588-00975-4 C1310 [2012年06月 刊行] ベンヤミン、アインシュタイン、ヴァールブルク……。二十世紀前半、大文字の〈歴史〉の破局のなかで閃光のように出現した知の星座が形づくるイメージ人類学とは何か。連続的時間を解体する歴史の弁証法がかいま見せる「徴候」「モンタージュ」「残存」を注視しつつ、プリニウスの古代からバーネット・ニューマンの現代までを往還し、アナクロニズムとしての美術史を実践する著者の理論的画期作。 ジョルジュ・ディディ=ユベルマン(ディディ=ユベルマン,G.)(Georges Didi-Huberman) 哲学者、美術史家。1953年6月13日生(サン=テティエンヌ、フランス)。リヨン大学で哲学の学士号を取得した後、美術史の修士号を取得。その後、社会科学高等
初版年月日 2012年6月 書店発売日 2012年6月21日 登録日 2012年5月8日 最終更新日 2012年11月15日 紹介 ベンヤミン、アインシュタイン、ヴァールブルク……。二十世紀前半、大文字の〈歴史〉の破局のなかで閃光のように出現した知の星座が形づくるイメージ人類学とは何か。連続的時間を解体する歴史の弁証法がかいま見せる「徴候」「モンタージュ」「残存」を注視しつつ、プリニウスの古代からバーネット・ニューマンの現代までを往還し、アナクロニズムとしての美術史を実践する著者の理論的画期作。 目次 序論 開け──アナクロニズム的学問としての美術史 イメージの前で──時間の前で パラドクスと呪われた部分 あらゆる歴史はアナクロニズム的である──モンタージュ あらゆる歴史はさまざまなアナクロニズムからなる──徴候 アナクロニズムの星座──われわれの時代を前にしての美術史 第一部 アナクロニ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く