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ブックマーク / www.aozora.gr.jp (147)

  • 寺田寅彦 学位について

    「学位売買事件」というあまり目出度(めでた)からぬ名前の事件が新聞社会欄の賑(にぎ)やかで無味な空虚の中に振り播(ま)かれた胡椒(こしょう)のごとく世間の耳目を刺戟した。正確な事実は審判の日を待たなければ判明しない。 学位などというものがあるからこんな騒ぎがもち上がる。だからそんなものを一切なくした方がよいという人がある。これは涜職者(とくしょくしゃ)を出すから小学校長を全廃せよ、腐った牛肉で中毒する人があるから牛肉をうなというような議論ではないかと思われる。 こんな事件が起るよりずっと以前から「博士濫造」という言葉が流行していた。誰が云い出した言葉か知れないが、こういう言葉は誰かが言い出すときっと流行するという性質をはじめから具有した言葉である。それは、既に博士である人達にとっても、また自分で博士になることに関心をもたない一般世人にとっても耳に入りやすい口触わりの好い言葉だからである。

  • 樋口一葉 たけくらべ

    廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火(ともしび)うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來(ゆきゝ)にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前(だいおんじまへ)と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、三嶋神社(みしまさま)の角をまがりてより是れぞと見ゆる大厦(いへ)もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ處とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形(なり)に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田樂(でんがく)みるやう、裏にはりたる串のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず、朝日に干して夕日に仕舞ふ手當こと/″\しく、一家内これにかゝりて夫れは何ぞと問ふに、知らずや霜月酉(とり)の日例の神社に欲深樣のかつぎ給ふ是れぞ熊手の下ごしらへといふ、正月門松とりすつるよりかゝりて、一年うち通しの夫れは誠の商賣人、片手わざにも夏より手足を色どりて、

  • 芥川龍之介 恒藤恭氏

  • 夏目漱石 坑夫

    さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりもよっぽど長いもんだ。いつまで行っても松ばかり生(は)えていていっこう要領を得ない。こっちがいくら歩行(あるい)たって松の方で発展してくれなければ駄目な事だ。いっそ始めから突っ立ったまま松と睨(にら)めっ子(こ)をしている方が増しだ。 東京を立ったのは昨夕(ゆうべ)の九時頃で、夜通しむちゃくちゃに北の方へ歩いて来たら草臥(くたび)れて眠くなった。泊る宿もなし金もないから暗闇(くらやみ)の神楽堂(かぐらどう)へ上(あが)ってちょっと寝た。何でも八幡様らしい。寒くて目が覚(さ)めたら、まだ夜は明け離れていなかった。それからのべつ平押(ひらお)しにここまでやって来たようなものの、こうやたらに松ばかり並んでいては歩く精(せい)がない。 足はだいぶ重くなっている。膨(ふく)ら脛(はぎ)に小さい鉄の才槌(さいづち)を縛(しば)り附けたように足

  • 夏目漱石 現代日本の開化 ――明治四十四年八月和歌山において述――

    はなはだお暑いことで、こう暑くては多人数お寄合いになって演説などお聴きになるのは定めしお苦しいだろうと思います。ことに承(うけたまわ)れば昨日も何か演説会があったそうで、そう同じ催しが続いてはいくらあたらない保証のあるものでも多少は流行過(はやりすぎ)の気味で、お聴きになるのもよほど御困難だろうと御察し申します。が演説をやる方の身になって見てもそう楽ではありません。ことにただいま牧君の紹介で漱石君の演説は迂余曲折(うよきょくせつ)の妙があるとか何とかいう広告めいた賛辞をちょうだいした後に出て同君の吹聴通(ふいちょうどお)りをやろうとするとあたかも迂余曲折の妙を極めるための芸当を御覧に入れるために登壇したようなもので、いやしくもその妙を極めなければ降りることができないような気がして、いやが上にやりにくい羽目に陥(おちい)ってしまう訳であります。実はここへ出て参る前ちょっと先番の牧君に相談をか

    florentine
    florentine 2014/01/10
    たまに読み返しては嘆息するのである。
  • 夏目漱石 薤露行

    世に伝うるマロリーの『アーサー物語』は簡浄素樸(そぼく)という点において珍重すべき書物ではあるが古代のものだから一部の小説として見ると散漫の譏(そしり)は免がれぬ。まして材をその一局部に取って纏(まとま)ったものを書こうとすると到底万事原著による訳には行かぬ。従ってこの篇の如きも作者の随意に事実を前後したり、場合を創造したり、性格を書き直したりしてかなり小説に近いものに改めてしもうた。主意はこんな事が面白いから書いて見ようというので、マロリーが面白いからマロリーを紹介しようというのではない。そのつもりで読まれん事を希望する。 実をいうとマロリーの写したランスロットは或る点において車夫の如く、ギニヴィアは車夫の情婦のような感じがある。この一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。テニソンの『アイジルス』は優麗都雅の点において古今の雄篇たるのみならず性格の描写においても十九世紀の人間を古代の舞

  • 作家別作品リスト:小泉 八雲

    公開中の作品 赤い婚礼 (新字新仮名、作品ID:58129)     →林田 清明(翻訳者) 秋月先生の古稀を祝して (旧字旧仮名、作品ID:58146)     →田部 隆次(翻訳者) 生霊 (新字新仮名、作品ID:59424)     →田部 隆次(翻訳者) おかめのはなし (新字新仮名、作品ID:59425)     →田部 隆次(翻訳者) おしどり (新字新仮名、作品ID:59734)     →田部 隆次(翻訳者) お貞のはなし (新字新仮名、作品ID:59735)     →田部 隆次(翻訳者) 雉子のはなし (新字新仮名、作品ID:59426)     →田部 隆次(翻訳者) 九州の学生とともに (新字新仮名、作品ID:58038)     →林田 清明(翻訳者) 銀河のロマンス (「天の河縁起」「天の川綺譚」)(新字新仮名、作品ID:62443)     →林田 清明(翻訳

    florentine
    florentine 2013/09/26
    今日命日
  • 小泉八雲 Lafcadio Hearn 戸川明三訳 葬られたる秘密 A DEAD SECRET

  • 正岡子規 歌よみに與ふる書

  • 芥川龍之介 大川の水

    florentine
    florentine 2013/05/13
    なんかわたし芥川だとこれがいっとう好きなんじゃないかといつもおもうのよね~
  • 小泉八雲 Lafcadio Hearn 戸川明三訳 耳無芳一の話 THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI

    耳無芳一の話 THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI 小泉八雲 Lafcadio Hearn 戸川明三訳 七百年以上も昔の事、下ノ関海峡の壇ノ浦で、平家すなわち平族と、源氏すなわち源族との間の、永い争いの最後の戦闘が戦われた。この壇ノ浦で平家は、その一族の婦人子供ならびにその幼帝――今日安徳天皇として記憶されている――と共に、まったく滅亡した。そうしてその海と浜辺とは七百年間その怨霊に祟られていた……他の個処で私はそこに居る平家蟹という不思議な蟹の事を読者諸君に語った事があるが、それはその背中が人間の顔になっており、平家の武者の魂であると云われているのである。しかしその海岸一帯には、たくさん不思議な事が見聞きされる。闇夜には幾千となき幽霊火が、水うち際にふわふわさすらうか、もしくは波の上にちらちら飛ぶ――すなわち漁夫の呼んで鬼火すなわち魔の火と称する青白い光りである。

  • 夏目漱石 野分

  • 森鴎外 舞姫

    石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと靜にて、熾熱燈(しねつとう)の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ來る骨牌(かるた)仲間も「ホテル」に宿りて、舟に殘れるは余一人のみなれば。 五年前の事なりしが、平生(ひごろ)の望足りて、洋行の官命を蒙り、このセイゴンの港まで來し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新ならぬはなく、筆に任せて書き記しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、當時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりておもへば、穉(をさな)き思想、身の程知らぬ放言、さらぬも尋常(よのつね)の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。こたびは途に上りしとき、日記(にき)ものせむとて買ひし册子もまだ白紙のまゝなるは、獨逸にて物學びせし間に、一種の「ニル、アドミラリイ」の氣象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に

  • 森鴎外 舞姫

    石炭をば早(は)や積み果てつ。中等室の卓(つくゑ)のほとりはいと静にて、熾熱燈(しねつとう)の光の晴れがましきも徒(いたづら)なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌(カルタ)仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人(ひとり)のみなれば。 五年前(いつとせまへ)の事なりしが、平生(ひごろ)の望足りて、洋行の官命を蒙(かうむ)り、このセイゴンの港まで来(こ)し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新(あらた)ならぬはなく、筆に任せて書き記(しる)しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日(けふ)になりておもへば、穉(をさな)き思想、身の程(ほど)知らぬ放言、さらぬも尋常(よのつね)の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。こたびは途に上りしとき、日記(にき)ものせむとて買ひし冊子(さつし)もまだ白

  • 作家別作品リスト:シュウォッブ マルセル

    公開中の作品 浮浪学生の話 (新字旧仮名、作品ID:49703)     →上田 敏(翻訳者) 法王の祈祷 (新字旧仮名、作品ID:49704)     →上田 敏(翻訳者) 癩病やみの話 (新字旧仮名、作品ID:49705)     →上田 敏(翻訳者) 作業中の作品 関連サイト

    florentine
    florentine 2012/10/05
    上田敏訳
  • 中島敦 山月記

    隴西(ろうさい)の李徴(りちょう)は博学才穎(さいえい)、天宝の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、ついで江南尉(こうなんい)に補せられたが、性、狷介(けんかい)、自(みずか)ら恃(たの)むところ頗(すこぶ)る厚く、賤吏(せんり)に甘んずるを潔(いさぎよ)しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山(こざん)、略(かくりゃく)に帰臥(きが)し、人と交(まじわり)を絶って、ひたすら詩作に耽(ふけ)った。下吏となって長く膝(ひざ)を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺(のこ)そうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐(お)うて苦しくなる。李徴は漸(ようや)く焦躁(しょうそう)に駆られて来た。この頃(ころ)からその容貌(ようぼう)も峭刻(しょうこく)となり、肉落ち骨秀(ひい)で、眼光のみ徒(いたず)らに炯々(けいけい)として、曾(かつ)て進士に登

  • 坂口安吾 私は誰?

  • 芥川龍之介 谷崎潤一郎氏

    僕は或初夏の午後、谷崎氏と神田をひやかしに出かけた。谷崎氏はその日も黒背広に赤い襟飾りを結んでゐた。僕はこの壮大なる襟飾りに、象徴せられたるロマンティシズムを感じた。尤もこれは僕ばかりではない。往来の人も男女を問はず、僕と同じ印象を受けたのであらう。すれ違ふ度に谷崎氏の顔をじろじろ見ないものは一人もなかつた。しかし谷崎氏は何と云つてもさう云ふ事実を認めなかつた。 「ありや君を見るんだよ。そんな道行きなんぞ着てゐるから。」 僕は成程夏外套の代りに親父の道行きを借用してゐた。が、道行きは茶の湯の師匠も菩提寺の和尚も着るものである。衆俗の目を駭かすことは到底一輪の紅薔薇に似た、非凡なる襟飾りに及ぶ筈はない。けれども谷崎氏は僕のやうにロヂックを尊敬しない詩人だから、僕も亦強ひてこの真理を呑みこませようとも思はなかつた。 その内に僕等は裏神保町の或カッフエへ腰を下した。何でも喉の渇いたため、炭酸水か

    florentine
    florentine 2012/04/12
    これを書いた芥川が、「文芸的な~」論争をした挙句、谷崎に「それにつけても、故人の死に方は矢張筋のない小説であった」と書かれてしまうところに、こう、なんていうか、ああ、言葉が出てこない……
  • 太宰治 川端康成へ

    あなたは文藝春秋九月号に私への悪口を書いて居られる。「前略。――なるほど、道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる憾(うら)みあった。」 おたがいに下手な嘘はつかないことにしよう。私はあなたの文章を屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。これでみると、まるであなたひとりで芥川賞をきめたように思われます。これは、あなたの文章ではない。きっと誰かに書かされた文章にちがいない。しかもあなたはそれをあらわに見せつけようと努力さえしている。「道化の華」は、三年前、私、二十四歳の夏に書いたものである。「海」という題であった。友人の今官一、伊馬鵜平(うへい)に読んでもらったが、それは、現在のものにくらべて、たいへん素朴な形式で、作中の「僕」という男の独白なぞは全くなかったのである。物語だけをきちんとまとめあげたもので

  • 三木清 認識論

    眞理の概念は知識の問題の中心概念である。それだから我々は先づこの概念の檢討から始めよう。 いはゆる模寫説(Abbildtheorie)ほど今日不評判なものはないであらう。誰も自分の考へ方が模寫説であるといはれることを極端に恐れてゐる。模寫説といはれてゐるのは、我々の表象と實在との一致をもつて眞理と考へる思想である。心の外にある物が心の中に映じ、この映像が物に一致してゐるとき、それが眞理であるといふのである。かかる模寫説は到底維持され得ないと評せられる。第一、我々の感性知覺が外的實在の意識のうちにおけるそのままの繰返しであり得ないことは、心理學の知識を俟つまでもなく、日常の經驗において何人にも分つてゐることである。第二に、眞理といはれるものの中には外界の實在と一致しないものがある。數學的眞理の如きはそれである。例へば、圓は一定點から等距離にある點の軌跡であるといふが、このやうな圓は實際には何

    florentine
    florentine 2011/04/10
    クザーヌスよんでからか。