タグ

ブックマーク / macska.org (12)

  • 橋本努氏の「売春業のライセンス化」論は、承認も社会的包摂ももたらさない - macska dot org

    ここのところ記事を書かせてもらっている「シノドスジャーナル」の執筆者の一人でもあり、わたしと守備範囲がかなりかぶっている(経済学よりの社会思想)橋努さん(北海道大学大学院経済学研究科准教授)が、新著『自由の社会学』に関連して、「気鋭の社会学者が提案する『売春業のライセンス化』と『自由な社会』とは?」と題するインタビューを受けている。『自由の社会学』そのものは読んでいないのだけれど(紀伊國屋書店ビーバートン店でみかけたら買おうと思っている)、このインタビュー記事を読んで気になった点をいくつか。 タイトルにもあるように、このインタビューが取り上げているのは、『自由の社会学』の多岐にわたる(らしい)トピックのうち、「売春業のライセンス化」について。橋さんは、次のように説明する。 しかし現実には、オーストラリアやニュージーランドで、売春業の経営者にライセンスを与える形で、売春の合法化が行われて

    橋本努氏の「売春業のライセンス化」論は、承認も社会的包摂ももたらさない - macska dot org
  • macska dot org 差別についての、ごく基本的な考え

    最近別ブログ *minx* のほうで関わった論争に関連して、差別についてのわたしの基的な考えを明らかにしておく必要があると思ったので簡単にまとめてみます。ていうか、以下に書くことはほとんど以前某掲示板で書いたことの再掲なので、お馴染みの読者もいるはず。ただし、最近の論争もそうなのだけれど、差別について議論する際に常にわたしがここで書く通りの意味で「差別」という言葉を使っているわけではない(相手がある議論では、相手に定義を合わせることもある)ので、そのあたりは分かってね。 まず差別という語を goo を通して『大辞林』で調べてみると以下のように書いてあった。 (1)ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、その違い。 「いづれを択ぶとも、さしたる—なし/十和田湖(桂月)」 (2)偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また

    macska dot org 差別についての、ごく基本的な考え
  • macska dot org >> Blog Archive >> フェミニズムにおけるポルノグラフィ否定論と肯定論の意外な近さ

    先日、反ポルノグラフィ論者で男性問題研究者のロバート・ジェンセン氏(テキサス大学)が、ポルノグラフィと男性性の問題について書いた近著『Getting Off: Pornography and the End of Masculinity』に関連した講演のためポートランドを訪れたので、積極的なポルノ肯定論者とまではいかないものの「反・反ポルノ論」程度にはこの論争にかかわってきたわたしも参加し、じっくり話を聞いてきた。その結果感じたのは、肯定派・否定派のどちらの側でも、相手の意見をきちんと聞く余裕のある人は、かなりの部分同意できるというか、同意できない部分に関しても「自分が絶対正しくて、相手は絶対間違っている」みたいに決めつけずに済むのではないかということだった。詳しく報告してみたい。 そのまえに、ジェンセンとかれのについて一応。かれはもちろん、宗教的・性道徳的な立場からの反ポルノ論者ではな

    macska dot org >> Blog Archive >> フェミニズムにおけるポルノグラフィ否定論と肯定論の意外な近さ
  • 「ポリガミー」と「ノン・モノガミー」の違い - macska dot org

    Filed under queer Posted on 2004/12/16 木曜日 - 18:10:23 by admin You can leave a response, or trackback from your own site. http://macska.org/article/58/trackback/ 9 Responses - “「ポリガミー」と「ノン・モノガミー」の違い” eyes Says: 2004/12/16 - 23:45:29 - こんにちは! eyesです。トラックバックをたどってやってきました。 >eyes さんの分類だと、わたしは「モノガミーの枠を超えられない」のに無理して「ポリガミーのようにふるまっている」ように見えるかも知れない。 いや、そうでもないと思いますよ。 モノガミーとポリガミーの間に何段階もグラデーションがあるはずで、バリバリのモノガミ

    「ポリガミー」と「ノン・モノガミー」の違い - macska dot org
  • 性犯罪者更生プログラムの是非、および小児性愛者との共生の可能性(ミーガン法 Part 5) - macska dot org

    最近、ミーガン法の話題が多くなっているこのサイトだが、メーリングリストやなんばさんのエントリのコメント欄などでいろいろ議論していることをこちらでもまとめておこうと思う。話題があちこちに飛んでいますが、メモ代わりという事でご了承ください。 【通常の性犯罪と比べ、凶悪な快楽殺人のケースでは再犯率は物凄く高いのではないか?】 特に凶悪な快楽殺人のケースでは確かに累犯が多いというのは知られているが、釈放後の再犯が多いというデータは多分存在しないはず。なぜなら、その種の犯罪ではあまりに犯行が凶悪であることと、最初に逮捕されるまでの累犯が多いために、一度逮捕されたら死刑・終身刑や実質上一生出られない超長期の懲役刑になって、釈放されることが滅多にないから。ミーガン法の対象となるのは「釈放された前科者」、すなわちそこまで凶悪でない犯罪者だけなので、凶悪快楽殺人犯の問題は別に扱うべき。 【勃起すると悪臭や苦

    性犯罪者更生プログラムの是非、および小児性愛者との共生の可能性(ミーガン法 Part 5) - macska dot org
  • macska dot org » Blog Archive » 「加害者は決して完全悪ではない」こそ反DV運動の教訓

    以下に報告するのは、以前から何度か話題のソースとしている某秘密主義ジェンダー研究系メーリングリストで過去数日にわたって続いたドメスティック・バイオレンス(DV)についての議論について。わたしと意見をたたかわせた相手の中心的な人はDVについての著書もある男性の学者なのだけれど、リストのルールによってリスト外での引用不可とされているので名前を伏せ、直接の引用は避けることにする。わたしは学術的な議論は公に開かれているべきだと思うのでこのメーリングリストには非常に不満があるのだけれど、貴重な情報源でもありルール違反を理由に追放されては困るので、「名前を出さない」「直接の引用はしない」というところまで妥協しちゃっています。 議論の焦点は、DVにおいて「加害者完全悪論」は良いか悪いか、そしてDVを通常の暴力と同様に犯罪として処罰することがDV解決に繋がるかどうかという点。「加害者完全悪論」というのは、

    macska dot org » Blog Archive » 「加害者は決して完全悪ではない」こそ反DV運動の教訓
  • ネオリベラリスティックな衝動に抗して(ミーガン法 Part 4) - macska dot org

    以前からここのサイトではいわゆる「ミーガン法」について反対論というか慎重論の立場から様々な資料を紹介してきたのだが、先日奈良で起きた小学一年生誘拐殺害事件に関連して容疑者が昨日逮捕され、その容疑者が過去にも女児に対する強制わいせつ容疑で逮捕された経歴のある人物であると判明したことで、過去に子どもへの性犯罪を犯した人の再犯を防止するための対策が社会的に議論されるのは避けられない情勢になった。なんばりょうすけ氏による大手新聞各社の社説のまとめを見ても分かる通り、ミーガン法に類するものを要求する世論が強まるのは確実。ところがいくらミーガン法に問題が多いとはいえ、「現状のまま何もしない」という主張では、「子どもを守れ」という口実で吹き上がるネオリベラリスティックな衝動に対抗できるはずもない。ではどうやって対抗するか。 対抗戦略の1つ目は、再犯対策の目的が何であるかという問題設定でイニシアティヴを握

    ネオリベラリスティックな衝動に抗して(ミーガン法 Part 4) - macska dot org
  • 20年遅れで輸入された「チャレンジド」の問題——あるいは「ジェンダーフリー」の再来 - macska dot org

    あんまりブログ更新を休みすぎると、「ブロガー」というわたしが唯一持っている肩書すら無くしてしまうよ!と思ったので、久しぶりに更新。ていうか、わたしは日政治をそんなに真面目にフォローしていないのだけれど、鳩山首相が障害者差別禁止法の整備を訴えたというニュースにおいて、首相の「障害者という言葉よりもチャレンジドの方が望ましい」という発言が紹介されていたので、その件について。 実は、はじめわたしがこのニュースを見た時に思ったのは、「チャレンジド」なんてわけのわからない外国語がそんなに一般に浸透することはないだろうし、放っておいてもいいだろう、くらいのことだった。鳩山首相もいったいどこでそんな言葉を知ったのだろう、余計なこと言わなくていいのにな、と。 でも、「ジェンダーフリー」の経験から分かる通り、わけのわからない言葉が、もしかするとわけがわからないからこそ、「進んだ外国ではこういう言葉が使わ

    20年遅れで輸入された「チャレンジド」の問題——あるいは「ジェンダーフリー」の再来 - macska dot org
  • 「異性愛者への12の質問」についての女性学MLでの議論 - macska dot org

    id:nodada さんのところで、「異性愛者へ12の質問」の日版を見かけたので、それに便乗。「あなたの異性愛の原因はなんだと思いますか?」にはじまるこの質問票は、同性愛者(やその他のクィア)に対して繰り返し投げかけられるたくさんの質問をひっくりかえして異性愛者に問うことで、軽いセクシュアル・ディスオリエンテーションを起こすとともに、自らのあり方について問いかけられることから免除された、異性愛者の特権を明らかにすることが目的だ。で、それにどのように便乗しようというのかというと、英語圏における女性学メーリングリスト WMST-L において、昨年11月にこの質問票をめぐって興味深い議論があったから、それを紹介しようかと。 議論の発端は、ケンタッキー大学のジェンダー&女性学教授ジョーン・キャラハンによる、知人(ケンタッキー大学の同僚ではないらしい)が授業で「異性愛者への質問」を使ったことが大学

    「異性愛者への12の質問」についての女性学MLでの議論 - macska dot org
  • ポートランドの活動家、ボニー・ティンカーさんからわたしが学んだこと - macska dot org

    わたしの尊敬する活動家の一人で、わたしと同じオレゴン州ポートランドに住んでいたボニー・ティンカーさんが、旅行先のヴァージニア州で交通事故にあい、61歳という年齢で亡くなった。彼女は西海岸で最も歴史の古いドメスティックバイオレンス(DV)シェルター、Bradley-Angle Houseの創設者であり、ゲイやレズビアンをはじめとする性的少数者の人たちが作る家族を支援する団体Love Makes A Familyの代表としても長年活動を続けてきた。また、社会的公正と非暴力主義を掲げるクエーカー教の信仰者として、ポートランドにおける平和運動や人権運動でも中心的な活躍をしてきた。追悼にかえて、わたしが彼女から学んだことをいくつか記録しておきたい。 わたしがボニーさんを知ったのは、Love Makes A Familyの代表としてだった。わたしの友人が大学に通いながらこの団体でたまたま仕事をしており

    ポートランドの活動家、ボニー・ティンカーさんからわたしが学んだこと - macska dot org
    florentine
    florentine 2009/08/29
    」「LARAとは、Listen, Affirm, Respond, Addの略で、それぞれ「聞く」「承認する」「応答する」「追加する」という意味」クエーカー教の伝統に由来する」あとでくりかえして読む。
  • DVシェルター廃絶論−−ハウジング・ファーストからの挑戦 - macska dot org

    ドメスティック・バイオレンスを、私的な関係における私的なトラブルではなく、社会的な対策・介入を必要とする社会問題であることがはじめに主張されたのは、とくに英米両国における第二波フェミニズムの盛り上がりの中においてだった。当初は「バタード・ウーマン」(殴られた女性)という言葉で呼ばれていたそれが、広く社会問題として認知されるにつれ、より範囲の広い−−被害者を女性に限らないという意味だけではなく、精神的・経済的な拘束も射程にいれた−−「ドメスティック・バイオレンス」(DV)という言葉が採用されるようになった。そして米国における一九九四年の「女性に対する暴力法」、日で二〇〇一年に施行された「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」といった法的制度が整備され、また各地に被害者の保護とDV防止をよびかけるさまざまな支援団体や相談窓口も設置された。 そうした支援設備のうちもっとも良く知ら

    DVシェルター廃絶論−−ハウジング・ファーストからの挑戦 - macska dot org
  • DV被害者支援を志す人はマツウラマムコ著「『二次被害』は終わらない」に絶望せよ

    サブカル路線に走った軽い記事に混じって「女性学年報」第26号に掲載されたマツウラマムコ氏の論文「『二次被害』は終わらない 『支援者』による被害者への暴力」を読む。マツウラ氏はこのブログにもたまにコメントをくださっている方で、性暴力やドメスティックバイオレンス(DV)への取り組みにおける「支援者の暴力」の問題に関してわたしと似たアプローチを取っているのだけれど、わたしが常々問題としているような「DVシェルターにおける権力構造」みたいなある意味社会設計によって解決可能な問題よりさらに奥にある解決不可能な構造的問題まで射程を伸ばしている点で評価できる。 わたしの「支援者」批判の論理は大きく2つに分けられる。1つはDVシェルターをはじめとするフェミニズム系の団体にありがちな構造上の問題であり、もう1つはそれを支えるフェミニズム発祥のイデオロギーというか「気分」だ。前者について詳しく言うと、例えばシ

    DV被害者支援を志す人はマツウラマムコ著「『二次被害』は終わらない」に絶望せよ
  • 1