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ブックマーク / kotobank.jp (9)

  • 大服茶(オオブクチャ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

    新年の祝儀として飲まれる茶の一種。王服、皇服、大福とも書く。大服とは、元来茶を多量に点(た)てることをいうが、大服が大福に音通するところから、祝儀茶として、新年の嘉例(かれい)として飲まれるようになった。現在では中に梅干しと昆布を入れて縁起を祝っている。また王服、皇服とは、村上(むらかみ)天皇(926―967)が六波羅蜜(ろくはらみつ)寺の観音を信仰され、尊前の献茶を服する夢をみて飲んだところ、病が治癒したとの故事からいわれるようになった。六波羅蜜寺では、古くより皇服茶の儀に空也上人(くうやしょうにん)の信仰を加味して、青竹による皇服茶筅(ちゃせん)を新年に授与する民間行事が行われる。 [筒井紘一]

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  • 御庭焼(おにわやき)とは? 意味や使い方 - コトバンク

    江戸時代に支配者や富裕な人々が自ら庭に窯(かま)を築いて製陶を行ったが、その窯を庭焼と称し、敬って世上御庭焼とよばれていた。桃山時代には、中世までとは打って変わって国産の陶磁器が高い美術的評価を受けることになり、高級な飲器としての認知がなされた。この動きに乗じて文化人たちは自ら製陶を行うようになった。御庭焼は大きく二つに大別される。一つは自ら作陶を行う趣味の窯、いま一つは調度を調えるため、職人の生産組織をもった窯である。御庭焼の早い例として、桃山前期の天正(てんしょう)年間後半に豊臣(とよとみ)秀吉が京都聚楽第(じゅらくだい)に設けた聚楽焼があげられ、その後、江戸時代にはあらゆる階層に波及し、幕末に至って絶頂を迎えることとなった。 [矢部良明]

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  • シャピロ(しゃぴろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

    リトアニアに生まれアメリカで活動した美術史家、美術批評家。コロンビア大学名誉教授。ユダヤ系家庭に生まれ、3歳の時に渡ったアメリカで生涯を過ごす。1920年に入学したコロンビア大学で言語学数学、文学、人類学、哲学、美術史など幅広く学び、24年に同大学で美術史と哲学の学士号を得る。28年より同大学で教鞭をとる。29年、フランス、トゥールーズ北西アベロン川沿いの町モワサックのサン・ピエール教会の柱廊および正面入り口の彫刻についての博士論文によりPh. D. を取得。この論文は31年に「モワサックのロマネスク彫刻」The Romanesque Sculpture of Moissacとして雑誌掲載され、ロマネスク美術、キリスト教図像学に関するシャピロの名声を確立することとなった。引き続きロマネスク美術における形式化、抽象化の問題に関心を寄せ、11世紀から12世紀における芸術家の行動や美的な評価に

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  • 《神々は死なず》(かみがみはしなず)とは? 意味や使い方 - コトバンク

    …1928年パリの高等師範学校卒業後,ローマ,フィレンツェ滞在を経て,ケンブリッジ大学,ハーバード大学,オックスフォード大学で教鞭を執り,72年以降オックスフォード大学名誉教授。代表的著作となった博士論文《異教の神々の系譜(神々は死なず)》(1940)においては,ギリシア・ローマの神々が中世の美術や著述の中に姿を変えて残存し,イタリア・ルネサンス期に,古典古代に彼らが有していた姿と意味とを再び結合しつつ復活した,とする説を展開した。これにより,古代と中世,中世とルネサンスの断絶を強調する従来の学説に対し新境地を開き,それとともに文学と美術史を総合する試みを行った。… ※「《神々は死なず》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 出典|株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について | 情報 今日のキーワード 千両役者 《1年間の給金を千両とるほどの

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  • 米川琴翁(よねかわ きんおう)とは? 意味や使い方 - コトバンク

    1883-1969 明治-昭和時代の地歌・箏曲(そうきょく)家。 明治16年12月25日生まれ。米川正夫,米川文子の兄。米川敏子の父。姉米川暉寿(てるじゅ)にまなび,ついで斎藤芳之都(よしのいち)に,明治38年には上京して小出(こいで)といに師事。一時姫路でおしえたが,東京にもどって大正9年研箏会を創設した。昭和44年1月24日死去。85歳。岡山県出身。名は親敏。

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    florentine
    florentine 2015/05/18
    米川正夫,米川文子の兄。米川敏子の父
  • 僮約(どうやく)とは? 意味や使い方 - コトバンク

    中国,後漢時代の詩人王褒の作品。王褒が成都の寡婦から1人の奴僕を買いとるという想定で契約文書になぞらえて作った押韻の戯文。家内の労務,荘園の生産と管理,遠近の市場における農工生産物の売買など,ありとあらゆる労働が奴僕の義務としてユーモラスに書きこまれ,読者の笑いをさそう。当時の人身売買文書の形式や四川地方における豪族の経済生活をうかがうのに好適の史料である。 執筆者:谷川 道雄

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  • 慕帰絵詞(ぼきえことば)とは? 意味や使い方 - コトバンク

    絵巻。10巻。正平6=観応2年(1351)作。願寺3世覚如の伝記を描いたもので、覚如の子慈俊撰。絵は藤原隆昌・隆章、詞書ことばがきは三条公忠ら。1、7巻のみ文明14年(1482)の補作で、絵は藤原久信、詞書は飛鳥井雅康。京都西願寺蔵。慕帰絵。 親鸞の後継者で願寺発展の基礎を開いた第3世覚如(1270-1351)の伝記を描いた絵巻。西願寺所蔵。《慕帰絵詞》と題したのは,上人の帰寂(入寂)を恋い慕うゆえであることが,冒頭の詞書に述べられている。1351年(正平6・観応2)の上人没後,ただちに次子慈俊によって詞書がつくられ,絵もほどなく完成したものと思われる。全10巻のうち第1,7両巻ははやくに失われ,1482年(文明14)詞書を飛鳥井雅康(あすかいまさやす),絵を藤原久信が補作した。このとき各巻末に雅康が記したところによれば,第2,5,6,8巻は藤原隆章が,第3,4,9,10巻は藤原隆

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  • 新聞小説(しんぶんしょうせつ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

    明治初年に新聞が創刊されるとまもなく紙面に取り入れられ、「新聞小説」ということばも、すでに1890年(明治23)ごろには成立している。内容は小説一般と変わりないが、しいて目だった傾向をあげるなら、商業主義とのかかわりが強く、多数の読者を対象とするために通俗的な作品が多いこと、毎日の興味をつなぐために1回ごとに特別のくふうが払われること、時事性に富むこと、などを指摘できる。しかし一方では、近代文学史の展開との関係も深く、また普通、挿絵が添えられて、それ自体も一つの歴史をもっている。 [高橋春雄 2019年2月18日] 明治期1880年代になると、自由民権運動の高揚を背景に、自由党系の『自由新聞』『絵入自由新聞』、改進党系の『改進新聞』『郵便報知新聞』などをはじめとする政党新聞は、民権思想宣伝のために競って政治小説を掲げ、桜田百衛(ももえ)(1859―1883)の『西の洋(うみ)血潮の暴風

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  • 聞法(もんぼう)とは? 意味や使い方 - コトバンク

    今日のキーワード 少子化 子供の数が減少すること,またより狭義に一国の人口動態を把握するための概念としては,合計特殊出生率が人口規模を維持するために必要な人口置換水準を下回ること。2016年現在,日の人口置換水準は 2.07...

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