臨済宗天龍寺派の禅寺。 暦応4年(1341年)足利尊氏が「等持寺」の別院として夢窓国師を開山として創建。本寺となった等持寺とは、二条大路高倉の東南にあった尊氏の屋敷をいう。屋敷は二つの役割をもち、一つは室町幕府の政庁の役割、もう一つは禅宗寺院としての役割であった。その為、屋敷は尊氏の住居として「二条高倉邸」といわれ、禅宗寺院としては「等持寺」といわれた。 創建にあたり、尊氏は足利家の菩提寺を三ヶ寺建てようと決意し、「等持寺」の名には一字に一個ずつ、あわせて三個の「寺」の字が含まれる。それが尊氏の三ヶ寺建立の願いの表れだという。足利家の三菩提寺、その第一号が「等持寺」で続いて衣笠の地に「別院 等持院」と、隣あって真如寺が建てられた。 尊氏の死後、別院等持寺は尊氏の墓所となり、その名前を「等持院」と改称した。その後、応仁の乱で本寺「等持寺」が焼失したため、別院だった現在の等持院が本寺となった。
JR東海道線の山崎駅改札を背にして左側に降りてすぐ、閑静な住宅街のなかに、古刹妙卉庵はある。その強烈なメッセージを放つ茶室は、この寺に慎ましやかに佇んでいる。 まず書院に入り、その縁側から茶室にいたるまでの庭の形式である「露地」 (路地) がはじまる。延段と呼ばれる畳のように石を敷きつめた飛び石が茶室に沿って延びている。この延段は桂離宮や裏千家今日庵、薮内家燕庵などの露地にも見られるが、おそらく、この妙卉庵が最初の例だといわれている。 さらに左折すると、景色と足触りが打って変わって、茶室の南の土間庇へ続く。丸い川石を用いた飛び石が足元に野趣を添え、南に面した明るい陽射しのなか、茶室入口であるにじり口へと自然に導かれる。 茶室にいたるまでに気分を高めるための到達の儀式とでもいうべきものが露地であることを、ここは教えてくれる。妙卉庵の例は、ごく初期の露地の原型として、単純にしてもっとも貴重な遺
江戸時代。サムライの時代の茶室に付属する設備として「刀掛」というものがある。 サムライ達は、茶室の狭いにじりをくぐる前に、刀掛に大小腰の物を置いてから茶室に入る。んでもって、茶室の中では刀のない、つまり身分の無い世界が広がっている。そう思っていた。 でも、今読んでいる江戸時代の茶の資料を見ると、刀掛は腰掛待合に必須の装備になっていた。 そりゃそうだ。二本差しのままで座るのはとても難しい。外して横置きするにも身分制社会の中でうかつに大身の人の刀に失礼があってはいけないもんな。 刀掛はここにあった方がいいに決まっている。 待庵とかで刀掛が茶室付随設備になっていたから茶室に刀掛なイメージが有ると思うが、実用的には腰掛待合にあったんじゃねーかなーと思う。 もしかすると茶室に付随する刀掛は、町人中心茶道の中で塵穴の如く形骸化したものではなかっただろうか、とか思ってしまう。 どうなんだろうね? 「ひさ
殊能将之 読書日記 2000-2009 The Reading Diary of Mercy Snow (シュノウマサユキドクショニッキ20002009 ザリーディングダイアリーオブマーシースノウTHEREADINGDIARYOFMERCYSNOW)
京都へ旅行に行く方からどこのお寺がお薦めですか?と尋ねられることがよくあります。どんな庭が見たいのかで答えも変わってくるのですが、「とりあえず」という感じで聞かれたら「とりあえず大徳寺」と答えます。大徳寺は20を超える別院と塔頭からなる広大な寺院のため、境内に一歩踏み入れば歩けど歩けど500年の時を遡ったような景色が続きます。朱の眩しい山門、立派な唐破風を持つ勅使門や重厚な築地塀、背景には巨木の群生や竹林、赤松林とスケールの大きさに事欠くことはなく、どこを歩いてもついさっき掃き清められたような緊張感が漂っています。 肥後藩主細川家と言えば総理大臣も務めた細川護煕ですが、彼は第18代当主。初代をたどると戦国時代までさかのぼり、関ヶ原の戦いでも活躍した細川忠興(ただおき)に行き着きます。忠興の父親は細川藤孝(幽斎)で足利、信長に仕え、大名としての肥後細川家の礎を築くととともに和歌、茶道など文芸
本堂前庭 高桐院(こうとういん)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の寺院。大本山大徳寺の塔頭。本尊は釈迦如来。 歴史[編集] 戦国時代に智将として名を馳せ、茶人としては利休七哲の1人として知られる細川忠興(三斎)が、父・細川藤孝(幽斎)のために慶長7年(1602年)に創建した寺院で、玉甫紹琮を開山とする。玉甫紹琮は幽斎の弟で、三斎のおじにあたる。創建については慶長6年(1601年)ともいうが、創建に際して春屋宗園が与えた偈(げ)に「寅十月十七日」とあり、干支の関係から慶長7年の創建とみられる[1]。 正保2年(1645年)に83歳で没した忠興は、遺言によりその遺歯が高桐院に埋葬された。以後当院は細川家の菩提寺として庇護される。 本堂は明治時代の廃仏毀釈により破却されたが、大正時代に忠興の末裔である侯爵細川護立により再建された。 境内[編集] 書院(意北軒) 松向軒 本堂(客殿)
(去年11月 京都・東山高台寺にて) 去年の紅葉の頃は京都に三日間行っていました。二日目に行った高台寺という紅葉の名所には傘亭と時雨亭という、二つの有名な茶室(厳密には茶屋)があり、それも見てきました。この二つは高台寺の一番高いところにあり、見晴らしもよく、黒谷さんの「淀見の席」宜しく淀川まで天気が良ければ見られたかもしれません。 上の写真は傘亭(からかさてい)。山居風の屋根と侘びた土塀が見事です。 内部はこのようになっています。東南アジア風のエキゾチックな感じがします。しかも窓がたくさんついており大変開放的です。こういった開放的な造りのお茶室は、特に「茶屋」と呼ばれ、茶室とは違った志向性を持つ建築とされています(他には桂離宮の松琴亭や苔寺の湘南亭がある)。 この茶屋を作ったのは時雨亭同様利休であり、秀吉の好みと伝えられています。もともとは伏見城内に作られ、こちらに移築されました。従来の利
飛鳥時代になって、仏教が伝来しその後の隆盛とともに仏像・献灯用具としての燈籠、供養としての石塔など石造品が数多くつくられ、桃山時代になり茶道の祖千利休をはじめ茶人の人々によってこれらの石造品が茶庭に持ち込まれるようになってきた。 江戸時代になるとこれらの石造品が大小の庭園に用いられるようになってきた。このように一般に普及してくると古くからの石造品では足らなくなり、古い由緒ある石造品を模倣したり、新しいものを考案したりして現在に至っています。 石燈籠を見てその時代を識別するのは大変難しい。幸いにも関西(京都・奈良)には名品が数多くあるので出きるだけ多く、昔の時代につくられた名品を見て自然とわかるような勘に似た力を養うことが大切である。 古い石灯籠とは・・・石造美術愛好者は、おそらく室町時代以前を古いものと称し、桃山・江戸時代のものは新しいと称するが、近年においては江戸時代(初期)の作品も古い
絵巻。10巻。正平6=観応2年(1351)作。本願寺3世覚如の伝記を描いたもので、覚如の子慈俊撰。絵は藤原隆昌・隆章、詞書ことばがきは三条公忠ら。1、7巻のみ文明14年(1482)の補作で、絵は藤原久信、詞書は飛鳥井雅康。京都西本願寺蔵。慕帰絵。 親鸞の後継者で本願寺発展の基礎を開いた第3世覚如(1270-1351)の伝記を描いた絵巻。西本願寺所蔵。《慕帰絵詞》と題したのは,上人の帰寂(入寂)を恋い慕うゆえであることが,冒頭の詞書に述べられている。1351年(正平6・観応2)の上人没後,ただちに次子慈俊によって詞書がつくられ,絵もほどなく完成したものと思われる。全10巻のうち第1,7両巻ははやくに失われ,1482年(文明14)詞書を飛鳥井雅康(あすかいまさやす),絵を藤原久信が補作した。このとき各巻末に雅康が記したところによれば,第2,5,6,8巻は藤原隆章が,第3,4,9,10巻は藤原隆
2012年03月31日11:40 カテゴリ赤レンガ旧陸軍第八師団 赤レンガ11 盛岡騎兵第23連隊 覆馬場 弘前にあった陸軍第八師団の騎兵第8連隊の覆馬場を調べていたら、盛岡の青山という町にも赤レンガでできた覆馬場の建物が残されていることを知った。「おおいばば」と言う。旭川にもあるみたいだが、それはまだ調べていない。 覆馬場とは、降雪や雨などに関係なく馬術の訓練ができるように赤レンガなどの建物で覆われた運動場のことである。 ネットで泳いでいたら偶然にもこの地図を見つけた。記入されている建物などはもう取り壊されて無くなってるのもある。 盛岡駅から、いわて銀河鉄道に乗って、一駅200円で青山に着く。 青山地区というところは、盛岡の観光拠点とは一線を画しているみたいで、それこそ観光ルートからはずれていると言っていいだろう。事実、タクシーの運転手さんやホテルの関係者、御土産店の人たちに覆馬場のこと
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