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批評に関するgadie_8107のブックマーク (5)

  • 「何故ぼっちちゃんの髪はピンク色なのか?」ってタイトルはどうなのって話|LW

    最近知ったことだけど作品の設定等について来はもっと別の実際的な理由があることを承知の上で「このような読解が可能である」という意味で「このような理由による」とあたかも主因のように述べる批評のローカルルールがあり、このせいでデマでは?みたいな余計な議論を挟む羽目になるっぽい — 人間が大好き (@hito_horobe) April 17, 2023 このツイートに全て書いてある通りで、俺が記事に書いた「ぼっちちゃんの髪がピンク色の理由」って「こういう読解が可能である」っていう批評的な意味合いなので、「実際的な理由は別じゃね?」みたいな反応はぼちぼちあります 具体的には 作者の人そこまで考えてないと思うよ 母と妹もピンクだから遺伝だろ 作者はこみっくがーるずの影響って言ってるよ 作品世界では実際には黒色と考えるのが妥当 みたいな反応ちょいちょいある 体感では10%弱くらいか? Twitter

    「何故ぼっちちゃんの髪はピンク色なのか?」ってタイトルはどうなのって話|LW
  • 「誹謗中傷」と「批判」の違いとは何か? 美術批評の視点から

    「誹謗中傷」と「批判」の違いとは何か? 美術批評の視点からSNSにおける誹謗中傷をめぐり、政府も悪質な投稿者の電話番号を開示できるようにする方向を示すなど、議論が高まりを見せている。そこでここでは、美術批評を軸に、「誹謗中傷」と「批判」の違いを武蔵野美術大学教授で憲法研究者の志田陽子が論じる。 文=志田陽子(武蔵野美術大学教授) 「あいちトリエンナーレ2019」において、「表現の不自由展・その後」展示中止に抗議して改変されたモニカ・メイヤー《沈黙のClothline》(2019) 放任できない悪質言論 SNS上の誹謗中傷が人の精神を追い詰める、という問題が、リアリティ番組出演者の自殺という出来事をきっかけに社会全体の関心事となっている。これに法がどう対処すべきかについて、様々な視点からの議論が出されているが、これに伴って、「法的に許容されない『誹謗中傷』と、正当な『批判』との線引きをどう考

    「誹謗中傷」と「批判」の違いとは何か? 美術批評の視点から
  • いろいろ間違っています

    国語警察です。増田の書き込みにはいくつも間違いがあり、看過できません。 1つめ。まずお茶のペットボトルに書いてあったのならそれは川柳ではなくおーいお茶の伊藤園が主催する新俳句大賞です。夕立という季語を入れているので、作者は俳句としての読み取りを求めていると解することができます。俳句の解釈にはいくつかフォーマットがあるので、読み取りにはある程度それを知っておく必要があり、簡単に云々するのは適切ではありません。 2つめ。件の句は大変面白い句です。やや読み口が未熟ではありますが、賞に選ばれるだけの作品だと言えます。以下、少しだけ解説をします。 まず、夕立を季語として用いているので、季節は夏。象は「夕立」が降る日でよくいる動物ではありませんから、場所は動物園とほぼ確定できます。夏の夕方に作者は動物園を訪れているわけです。事情はさまざま、ですが、一般的にいってどんな心境だと想像できるでしょうか。夏

    いろいろ間違っています
    gadie_8107
    gadie_8107 2021/09/19
    “まるで壮大な幻を一編の短編映画に仕立てたような幻想を、わずか17字に詰め込む” 自分は逆にわずか17文字をそこまで膨らませることのできる(しかも書いて示せる)増田がすごいと感じた 批評部分はおいといて
  • 「物語」から疎外されるものについて(「ルックバック」の感想のような、そうでないような) - あままこのブログ

    ルックバック - 藤本タツキ | 少年ジャンプ+ 話題になっていますね、「ルックバック」 blog.hatenablog.com www.j-cast.com 僕も無料ということで読んでみたんですが、「まあ、良いとは思うけど、そこまで絶賛されるものか?」という感じの感想でした。 ただ一方で、下記のような批判もなんか違うように感じるんですね。 anond.hatelabo.jp 統合失調症患者として、マンガ「ルックバック」に抗議します。何の説明もなく、精神障害者が殺人を犯すシーンを書くことは、まちがいなく、統合失調症患者への偏見を助長します。— 障害者雇用の働き方 (@YANA1952) 2021年7月19日 名指しで批判されている。↓は今朝書いたが、他人のツイートに触発されてのことであり、自分の認識がぬるいと言わざるをえない。物語の必然に従ってあのような犯人像が選ばれたのか、作品の価値判断

    「物語」から疎外されるものについて(「ルックバック」の感想のような、そうでないような) - あままこのブログ
    gadie_8107
    gadie_8107 2021/07/20
    めいめい好きなようにすればいいじゃない、とは思うものの、クリーンなノリが求められる最近のインターネット文化には忌避感というか、合わないなというのはよく感じる。水がきれいすぎるのも息苦しい。
  • 批評は個人の好みを越えてどのように可能か - やしお

    認識の枠組み - やしお の「違う側面で見ること/豊かであるということ」という節の中で以下のように書いた。 ある楽曲について、対位法的にどうか、和声法的にどうか、リズム構造はどうか……と様々な体系から説明できる。そしてどの体系を適用してその現象を見るかは恣意的である。それだから、ある体系(価値判断)からその現象が否定されたとしても、現象全体を否定するには及ばない。弓の持ち方がおかしかったとしても、そのアニメ全体を否定する必要は必ずしもない。 また、ある体系から見て否定されたとしても、別の体系によって肯定されていることもある。映画の中で「物理的にそんなことは起こり得ない」というようなことが起きていても、映画なり物語なりの論理からそれが明らかに必要であって導かれていることもある。 現象(作品や物事)に様々な体系、網をかけていく。 隙間を埋めて体系をより精緻にすることもできるし、別の体系から語る

    批評は個人の好みを越えてどのように可能か - やしお
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