白井晟一のエセーととり組んで、「無窓」の解説として論稿を著した松山巖は、京都工芸繊維大学での白井晟一展のシンポジウム「白井晟一・現代との対話」で、「白井は哲学者だった。それも正真正銘の哲学者だった」という言葉から話しを始めた。これはもちろん言うまでもないことだが、白井が建築家ではなく哲学者だったということでもなく、白井の建築が哲学的だったという意味でもなかった。 かれの「無窓」の解説の中に次のような一節がある。伝統論争の中で多くの建築家や美術家が形象的にいかにも弥生や縄文を想起させる表現をしていたのに対して、いわば縄文の旗頭のように祭り上げられているように見られた白井は、その「55年には『原爆堂計画』を発表し、56年『松井田町役場』を、58年『善照寺』を竣工させているが、いずれも縄文だと思わせる仕事ではない。荒々しく猛り狂った神経は内面に湛えられ、外観はあくまで静謐で、見る者に内省の時間を
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