宇野常寛が本書で論じているのは、おおよそ次のようなことである。冷戦終結後、経済のグローバル化と情報ネットワークの浸透が進んだいま、かつてオーウェルが『1984年』で描いた「ビッグ・ブラザー」の問題――イデオロギー装置としての国民国家――は完全に退潮した。それにかわって台頭しているのは、民主主義/資本主義社会の日常に巣食う、無数に蠢く匿名的な悪としての「リトル・ピープル」である。宇野の見立てによれば、村上春樹は『1Q84』の中でこの問題を描こうとしたが、それは結局のところ「父」をめぐる【家族小説/ファミリーロマンス】の水準に留まり、全く別の『平成「仮面ライダー」』シリーズこそが、この「リトル・ピープル」の存在に肉薄する文学的想像力を展開していたというのである。 こうした宇野の見立ては、村上春樹と仮面ライダーというあまりにもかけ離れた二つを組み合わせているために、実に壮大奔放な試みに見える。し