風景写真は肖像写真や報道写真などと区別されているが、私の考えでは、全ての写真は風景写真である。被写体がむごたらしい屍体であろうと、飢えた子供であろうと、それは風景である。 ひとびとは、写真が客観的なものではなく、撮影者の主観的な選択・解釈にもとづいているのだということを主張する。ある場合には、それは「客観性」のイデオロギーへの批判であり、ある場合には、写真が芸術的な行為であることの証しである。どちらにしても凡庸な見方であって、もともとそのいずれとも異質な何かとしてあらわれた写真を従来の認識論的装置の中に連れもどしてしまう。むしろわれわれは写真の≪客観性≫に驚くべきだろう。 たぶん誰でも自分の声をはじめてテープで聞いたとき、いたたまれぬようなおぞましさを覚えるだろう。「あれは私の声ではない」という思いと、「あれが私の声なのだ」という思いが交錯する。その思いはどちらも正しいので、われわれはその
読書ノート(ほとんど引用からなっています)ジョン・ケージは作曲家としてはクセナキス、ブーレーズなどから批判されることもある、とくにその偶然性(チャンス・オペレーション)の音楽という側面から。 クセナキス曰く、《楽譜そのものが不確定な作品において、ケージは作曲家としての仕事を放棄し「音楽を事実上否定し、固有領域の外にひきずりだす」》、と。 この批判に直接応えたものではないが、ケージはのちほど《チープ ・ イミテーション 》 ( 1 9 6 9 )で偶然性をもちいない作曲方法を選択した理由を問われてつぎのように答えているらしい(参照:藤井たぎる『失われた音楽を求めて』)。 現在の私の立場があなたの目に謎めいて映るのは、 あなたが私の作品全体を見わたしていないからでしょう。全体を見れば確かめられると思いますが、私は今まで個人のために、特定の人のためにしか書いてこなかった。交響楽団のために書いたこ
読書ノート(ほとんど引用からなっています)昨日、フーコーを引用したのだけれど、すこし彼の同性愛をめぐって、いくつかの文献をネット上を中心に調べてみた(私の手許にはフーコーの著書は二冊しかないし、ほとんど書き込みをしていない、つまり流し読みをしているだけだから、ここでは別の文献から)。 まず、浅田彰は島田雅彦との対談『天使が通る』でこんなことを言っている(1988年の対談だから、浅田彰31歳、島田雅彦は27歳ということになるのだが、ダンテ、ニーチェ、フーコー、ミシマ、ヴェンダースを中心に論じられ、浅田氏は若い頃からその広範な知識は周知のことだが、この27歳時の島田氏の幅広い読書量、知識にも何度読んでも驚かされる)。 ギリシアのセックスというのは、フーコーも引用しているドーヴァーの『古代ギリシアの同性愛』なんかによると、年長者と年少者の非対称的な関係であって、一方は能動、他方は受動と決まってお
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く