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Toward the Sea : 「写真という装置」をめぐって 柄谷行人(『隠喩としての建築』より)
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Toward the Sea : 「写真という装置」をめぐって 柄谷行人(『隠喩としての建築』より)
風景写真は肖像写真や報道写真などと区別されているが、私の考えでは、全ての写真は風景写真である。被... 風景写真は肖像写真や報道写真などと区別されているが、私の考えでは、全ての写真は風景写真である。被写体がむごたらしい屍体であろうと、飢えた子供であろうと、それは風景である。 ひとびとは、写真が客観的なものではなく、撮影者の主観的な選択・解釈にもとづいているのだということを主張する。ある場合には、それは「客観性」のイデオロギーへの批判であり、ある場合には、写真が芸術的な行為であることの証しである。どちらにしても凡庸な見方であって、もともとそのいずれとも異質な何かとしてあらわれた写真を従来の認識論的装置の中に連れもどしてしまう。むしろわれわれは写真の≪客観性≫に驚くべきだろう。 たぶん誰でも自分の声をはじめてテープで聞いたとき、いたたまれぬようなおぞましさを覚えるだろう。「あれは私の声ではない」という思いと、「あれが私の声なのだ」という思いが交錯する。その思いはどちらも正しいので、われわれはその