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ブックマーク / bach.hatenadiary.jp (11)

  • 【昇天祭記念】《ロ短調ミサ曲》で礼拝をしたら - 現代古楽の基礎知識

  • 音楽芸術は公共財か?(6/6) - 現代古楽の基礎知識

    第6回 音楽芸術の新たな外部経済 「音楽芸術は公共財である」という掛け声は、西洋クラシック音楽を中心とした音楽芸術に助成が行われることを期待して掲げられたスローガンだ。この助成は、資金提供者、一般的には納税者がその財に支払っても良いと考える費用の合計と一致していなければならない。ということは、その資金を最大化するには、納税者を積極的に説得できるだけの外部経済を持つことが必須である。公共財論を掲げるというのは、こういった目的論的な文脈に自らを放り込むことなのである。 ところが「公共財としての音楽芸術」は現在、非常に貧弱な外部経済しか持ち合わせていない。つまり、ポピュラー・ミュージックなど生産性の高い音楽のマーケティングの道具といった程度の役割しかないのである。このような貧弱な役割しか持たないにもかかわらず、社会に一層の支援を求めるというのは大変におこがましい。いま、音楽芸術が自らを公共財であ

    音楽芸術は公共財か?(6/6) - 現代古楽の基礎知識
    gauqui
    gauqui 2011/12/06
    全6回の連載だけどとりあえず結論部
  • 音楽芸術は公共財か?(5/6) - 現代古楽の基礎知識

    第5回 「音楽芸術というまやかし」は公共財である いまいちど「音楽芸術は公共財である」というスローガンに立ち返り、この言葉を検証しよう。この命題が矛盾を導くことはすでに指摘した。たいがいのことが真となるような「過剰」な命題も問題だが、ひとつでも矛盾を導き出したら、その命題はそれでおしまいである。だから、まずはこの威勢の良いスローガンから矛盾を取り除かなければならない。そしてそれは、難しいことではない。「『音楽芸術というまやかし』は公共財である」とすれば解決だ。「音楽芸術というまやかし」とは、言葉を変えれば、旧来の音楽芸術が今も有効だと信じ込むことだ。無効であるものを、さも有効であるように装っていた点が矛盾の原点だから、その点を正しく記述し直せば、即座に矛盾は取り除かれる。 次に「音楽芸術というまやかし」が公共財と言えるかどうかを確かめる必要がある。公共財は、(1)非競合性、(2)排除不可能

    音楽芸術は公共財か?(5/6) - 現代古楽の基礎知識
  • 音楽芸術は公共財か?(4/6) - 現代古楽の基礎知識

    第4回 芸術というゾンビ 「音楽芸術は公共財である」という掛け声はすでに無効だ。そのことがはっきりしているのに、あたかもそれが有効な物言いとして流通しているのはなぜだろうか。それは、旧来の音楽芸術概念がゾンビとして生き残っているからだ。それをゾンビとして生かしているのは意外にも、旧来の枠組みで非芸術とされた音楽に携わる人々である。今、音楽芸術概念を最も必要としているのは、ポピュラー・ミュージックを中心とした生産性の高い音楽ジャンルなのである。そのカラクリはこうだ。 芸術は死んだ。それも、芸術なるものは幻想だ、なにものも旧来の意味での芸術たり得ない、という死に方をしたはずである。しかし、芸術概念はしぶとく生き残ってきたというのが実際のところだ。たとえば、19世紀半ばに始まる「アーツ・アンド・クラフツ運動」は、芸術と日用品のあいだの境界を取り除き、両者の融合を図ろうとしたが、それは日用品を芸術

    音楽芸術は公共財か?(4/6) - 現代古楽の基礎知識
  • 音楽芸術は公共財か?(3/6) - 現代古楽の基礎知識

    第3回 音楽芸術 さて「公共財としての音楽芸術」は前述の3つの性質を兼ね備えていなければならないので、その音楽芸術とは個別の事柄、たとえば1回1回の演奏のことを指しているわけではない。10人が入れるサロンで演奏を行うならば、11人目からは排除されることになるし、チケット代金が定められていれば、ただ乗りすることはできない。 公共財の条件を満たす「音楽芸術」とはつまり、概念としての「音楽芸術」だ。概念であれば、非競合的で排除不可能的な上、外部経済を持ち得る。音楽芸術が公共財なのだとすれば、その音楽芸術とは、作曲、ひとつひとつの楽曲、1回1回の演奏、そのたびごとの聴取、録音、放送、批評、教育などを総体として表現した、概念としての音楽芸術でなければならない。もちろん、その概念を担保するのは個々の音楽現象に他ならないから、昨夜子どもに歌った《ブラームスの子守唄》も音楽芸術だし、明日聴く《越天楽》の演

    音楽芸術は公共財か?(3/6) - 現代古楽の基礎知識
  • 音楽芸術は公共財か?(2/6) - 現代古楽の基礎知識

    第2回 公共財 音楽には公共性がある。バッハの《平均律クラヴィーア曲集第1巻》をレオンハルトが演奏会で弾いているとき、私は家のピアノで同じ曲をつま弾くことができる。翌日、その一節を口ずさみながら散歩する人を見かけることだってあり得る。このとき《平均律》はだれにでも開かれた共有の財産だと言える。こうした観点から、音楽の公共性について議論を深めることは可能だろう。 しかし、音楽芸術は公共財である、というテーゼとなると、ことはそう簡単ではない。このスローガンを掲げるにあたり、音楽芸術という概念の有効性や、公共財という言葉の定義について検討が重ねられた気配はない。もし検討したならば、「音楽芸術は公共財だ」などという概念矛盾した物言いは出来ないはずである。このことは今後の議論で明らかになるだろう。 公共財という言葉を使い出したのは、生産性の低い音楽、すなわち西洋クラシック音楽を中心とする音楽ジャンル

    音楽芸術は公共財か?(2/6) - 現代古楽の基礎知識
  • 音楽芸術は公共財か?(1/6) - 現代古楽の基礎知識

    大阪での選挙結果を受けて、アートをい扶持にする人たちや、その周辺にいる関係者が、ホビーとしてアートを愛する人びとや、別にそんなもの無くても良いというみなさんまでをも巻き込んで、かまびすしく議論をかさねておいでです。 「補助金切るのか?上等だ!」とか「別にいいよねえ」とかの意見が交錯するのを傍目に観ておりまして、当方も意見の表明をしておいた方がよかろうという結論に達しました(なんだかエラそうですが、単に「おうおう黙っちゃいらんねえな」という東京下町のオヤジ気質丸出しなだけです)。謹んで私の考えをみなさまにお知らせいたします。 テーマは「音楽芸術は公共財なのか?」ということ。公共経済学的見地から、はたまた美学(アートの哲学という意味です.「高倉健、男の美学」とかでなく)的見地から「音楽芸術公共財論」を批判しました。ご興味ある方はどうぞ最後までお付き合いくださいませ。全6回。不定期ですが、すで

    音楽芸術は公共財か?(1/6) - 現代古楽の基礎知識
  • カンブルランの魔法 – ベルリオーズ《ロミオとジュリエット》(読響) - 現代古楽の基礎知識

    シルヴァン・カンブルランが読売日交響楽団を率いてベルリオーズの《ロミオとジュリエット》を演奏した。大掛かりな管弦楽と合唱、そして独唱陣が必要なこの「劇的交響曲」は、実演される機会が少ない曲のひとつだ。ローラン・ナウリ(拍手!)を筆頭に、独唱・合唱とも見事に持ち場を守ったが、この日の白眉はなんと言ってもオーケストラ。そして、あの管弦楽を実現させた指揮者・カンブルランである。当夜のオーケストラにはカンブルランの「魔法」が効いていた。 カンブルランの「魔法」とは何か。それは、ヴィブラートとノンヴィブラートを表現手段としてしっかりと使い分けていたこと。そしてそれが、3つの効果を生み出しこと。両者の使い分けはまず、文学的内容を表現するのに効果を挙げた。すなわち、素朴だったり諧謔的だったりする場面ではノンヴィブラートを、愛の情景や、葬送・死・祈りと言った場面ではヴィブラートを使い、一面的になりがちな

    カンブルランの魔法 – ベルリオーズ《ロミオとジュリエット》(読響) - 現代古楽の基礎知識
    gauqui
    gauqui 2011/09/12
  • 「現代音楽の展開:1951 - 2011」-- 一柳慧 - 現代古楽の基礎知識

    現在、神奈川県立近代美術館葉山館では「現代音楽の展開:1951−2011」(全5回)が開講されています。「第一線で活躍する音楽家たちを招き、それぞれの体験を踏まえつつ、現代音楽の可能性について語りつないでいく試み」とのこと。 8月20日の第2回目は、作曲家・一柳慧さん(1933 -, 兵庫県神戸市)が1960年以降の自らの創作を振り返りお話くださいました。以下は、一柳さんがお話しになった事柄のメモ。1960年代の音楽の革新性と、日の思想がそれらの音楽に与えた影響とを強調しておられました。 ………………… 【前  史】1954年 渡米、ニューヨークへ。日米の落差に驚く。 ■「現代音楽のルネサンス」1960年代。180°価値観が変わった 西洋音楽史のラインの上にもはや乗らない音楽が表れたのが60年代 →その他の分野も含めて「アメリカ芸術の黄金時代」 ■「日の思想・禅」60年代アメリカのアー

    「現代音楽の展開:1951 - 2011」-- 一柳慧 - 現代古楽の基礎知識
  • 格付け!世界の指揮者 -- モーストリー・クラシック特集記事の補遺 - 現代古楽の基礎知識

    **ランクを20位まで拡大(8月26日)** 8月20日発売の『モーストリー・クラシック』10月号で「最新格付け 世界の指揮者」という特集が組まれています。当方もアンケートに回答し、以下の通り格付けしてみました。編集部からは選定の原則を特段、示されていませんので、独自にルールを決めて臨みました。 (1)現在、演奏を聴くことが出来る現役指揮者 (2)その内、過去4年内に当方が演奏を聴いた指揮者 (3)判断材料は演奏会のみ(録音・録画は判断材料にしない) 最近、記憶力が著しく低下してきていることもあり、記憶が新鮮で比較が精確に行いやすい指揮者を対象にランキングを実施。モーストリー誌上では順位と名前だけが並びますが、ここでは、1位から20位には判断材料となった演奏会(の内、最も印象深いもの)の概要を明記、選外の指揮者(2008年から2011年に演奏を聴いた主な指揮者)には直近の演奏会の時期を付記

    格付け!世界の指揮者 -- モーストリー・クラシック特集記事の補遺 - 現代古楽の基礎知識
  • 古楽に指揮者は必要か? – バルトルト・クイケンとの対話 - 現代古楽の基礎知識

    6月30日、バルトルト・クイケンによる古楽セミナーが、東京音楽大学で開催されました。クイケン三兄弟の笛担当・バルトルトがラ・プティット・バンドの公演の合間を縫って登壇し、バロック音楽の演奏法について簡単にレクチャー。つづいて同大学の学生を相手にフラウト・トラヴェルソのレッスンを行いました。それを受けて最後に質疑応答の時間が持たれ、活発な議論が展開されました。今回はその質疑応答の一場面から、演奏家の指向と指揮者の必要性について考えをめぐらせます。 当方がクイケンに尋ねたのはこんなこと。 「指づかいと音色の関係について、興味深く聴きました。それに関連して、モダン・フルートで18世紀の音楽を演奏する際の留意点についてうかがいたい。たとえば、バッハの《ヨハネ受難曲》第9曲のアリア『Ich folge dir gleichfalls, mein Heiland』。この曲は変ロ長調で、D管のフラウト・

    古楽に指揮者は必要か? – バルトルト・クイケンとの対話 - 現代古楽の基礎知識
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