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ブックマーク / blog.goo.ne.jp/superflat (9)

  • カオス/破滅・ラウンジとは何だったのか - SUPER FLAT 2

    RT @hisao_nakai(中井久夫):戦争が大幅にエントロピーの増大を許すのに対して、平和は絶えずエネルギーを費やして負のエントロピー(ネゲントロピー)を注入して秩序を立て直しつづけなければならない。一般にエントロピーの低い状態、たとえば生体はそのようにして維持されるのである。エントロピーの増大は死に到る過程である。秩序を維持するほうが格段に難しいのは、部屋を散らかすのと片付けるのとの違いである。戦争では散らかす「過程」が優勢である。戦争は男性の中の「子ども性」が水を得た魚のようになる。〔...〕負のエントロピーを生み出すためには高いエントロピー(無秩序)をどこかに排出しなければならない。部屋の整理でいえば、片付けられたものの始末であり、現在の問題でいえば整然とした都市とその大量の廃棄物との関係である。(中井久夫著「戦争と平和についての観察」より、『埋葬と亡霊―トラウマ概念の再吟味』

    カオス/破滅・ラウンジとは何だったのか - SUPER FLAT 2
  • ほしのこえ その9 - SUPER FLAT 2

    非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について) RT @pentaxx_bot(斉藤環):そうです。僕は言語の特権性を言わないためにベイトソンを利用しているんですよ。神経系には言語は関係ないですから、脊髄反射に言語は介在しませんから。だから僕としては、器質的(オルガニック)な主体をもち出してきたことで、実は脊髄反射弓も主体だと言いたいわけですよ。 @hazuma_bot(東浩紀) まさにそう。イルカと人間を区別しないところがベイトソンのいいところですね。(『不過視なものの世界』54ページ) あずまんによれば「セカイ系」という言葉は、《主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力」を意味している

    ほしのこえ その9 - SUPER FLAT 2
    gauqui
    gauqui 2010/10/15
    まさかのラッセン
  • 文明の光と影とストライプ - SUPER FLAT 2

    1995年に川久保玲がパリのショーで発表したコム・デ・ギャルソンの服は、そのストライプ柄がアウシュヴィッツの囚人服を思わせることから物議をかもし、ユダヤ人団体からなどの抗議を受けて、のち販売も停止された。華やかなショーの舞台にホロコーストの悪夢が紛れ込んだわけだが、真に困惑すべきはその後、これらアウシュヴィッツの囚人たちの写真が何か別のものに見えてくることである。ミニマルなストライプのイメージが、光と影、夢と現実、そして生と死のコントラストを貫通し、それらの二項対立を侵しつつ解除させようとしているかのようである。むろんヨーロッパではホロコーストをネタにすることはタブーだが、この前衛的なデザイナーはこのとき、何かしら歴史的記憶に対する挑戦を行ったのではないだろうか。それはアートやデザインだからこそできる、文明転換への第一歩なのかもしれない。(参考)

    文明の光と影とストライプ - SUPER FLAT 2
    gauqui
    gauqui 2010/09/17
    タブーとして販売停止になったギャルソンの服か。ストライプは亀裂
  • セックス&ヴァイオレンス - SUPER FLAT 2

    >ラスコー洞窟は芸術の発端であるという言説がよくなされますが、ラスコー洞窟はヴァイオレンスとセックスだと言ったのは、バタイユが唯一だと思います。それが芸術と宗教の始原の場である洞窟のなかで行われ、幻想のスクリーンに映し出されていたと思う。(中沢新一談『ヴァナキュラー・イメージの人類学』172ページ) セックス&ヴァイオレンス、エロス&タナトス。どのみちバタイユをスルーしてしまうことなどできない相談だが、日では悪評高い村上隆のこの「エロス・フィギア」は、それを生み出した日文化歴史的な「イタさ」と結びついている。村上隆はアート界のセレブとなった今でも「僕はオタクだ」と主張し続けているが、それは自分のアートがその日特有の「イタさ」とけっして切り離すことができないことを知っているからだろう。当のオタクたちが感じることのないであろうその「イタさ」を、村上隆は「物のオタクではない」がゆえに痛

    セックス&ヴァイオレンス - SUPER FLAT 2
  • 秋葉原レッド・ライン7 - SUPER FLAT 2

    非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について) RT @ShigehikoHasumi: ウィルフレッド・セラーズの『科学、知覚、現実』の「経験主義」の章では、「物理的な対象は感覚内容の事実的かつ可能的な原型である」という事実を語る例として何度も「赤」に言及している。「ジョーンズは、一つの赤い三角形の拡がりを感じ取った」、「赤い三角形の拡がりが存在する」、「赤い三角形の感覚内容が存在する」、等々、である。ウィラード・クワインもまた『ことばと対象』の第一章「言語と真理」を「日常的自称」の考察から始め、すぐさま「痛い!」という痛みをあらわす主観的な一語文と同時に「同時に観察している複数の人々がほぼ一様な刺激状況」を持ちうる客観的なケースとして、「赤」の分析を始めている。「赤‐緑」の色盲が「redのうちに人夕日を入れて草は除き、ロブスター

    秋葉原レッド・ライン7 - SUPER FLAT 2
  • 「『赤』の誘惑」をめぐって 2 - SUPER FLAT 2

    >さらには、ジャン=ピエール・リシャールが『詩の深さ』の「ネルヴァルの魔法の地理学」の章で、植物的な「緑」のテーマが「赤」にゆきつくさまを、「ネルヴァルの燃えあがる植物性の論理的な終局」としてみごとに解読していることも想起される。ネルヴァルに「赤の叫び声」を読みとるマルセル・プルーストの分析にしたがい、フランスの批評家リシャールはこう結論する。「緑は、したがって赤に行きつくのである」。(蓮實重彦著『表象の奈落-フィクションと思考の動体視力』(青土社)306ページ) ヴィトゲンシュタインが『色彩について』で「赤‐緑‐色盲」の問題について書いているということを知らなくとも、東浩紀が『文学環境論集L』を赤と緑の二冊セットにしているということに気が付けば、せめてゼロ年代批評の地平からの転落だけは避けられると思う。『文学環境論集L』では、赤がエッセイ、緑がジャーナルとなっている。そして続く『情報

    「『赤』の誘惑」をめぐって 2 - SUPER FLAT 2
  • ミステリック・サイン - SUPER FLAT 2

    非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について) >柄谷によれば、前近代の物語の言葉は「不透明」で、近代文学あるいは自然主義の現実描写は言葉を「透明」にすることで生まれた。そして、大塚によれば、キャラクター小説はその過程で抑圧された可能性の回帰として生まれた。つまり、キャラクター小説の誕生によって言葉はふたたび「透明」ではなくなり、現実を単純に描写するものではなくなった。しかし、それはただ「不透明」に戻ったわけでもなかった。なぜならば、キャラクター小説が導入した新しい言葉、まんが・アニメ的リアリズムは、記号的でありながら「自然主義の夢」を見る、すなわち、〈不透明で非現実的な表現でありながら現実に対して透明であろうとする矛盾を抱えた、マンガ表現のそのまた「模倣」として〉作られた言語だからである。(東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生』94

    ミステリック・サイン - SUPER FLAT 2
  • 佐々木友輔の映像ダウジング - SUPER FLAT 2

    非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について) >具体的な事例を見てみよう。象皮症を患うインド人男性の写真の場合、振り子は、写真からはみ出さんばかりに大きな楕円をやみくもに描き続けた後、静止した。目で追うことができないほどの激しい動きは、この男性が、身体のみならず精神も病んでいることを示す。振り子が静止した後には、実験者は、胃への圧迫感と息苦しさを覚えた。〔...〕 同様の実験を繰り返し行ったカレンベルクは、写真の上に垂らした振り子が、被写体の性別、健康状態や体質、気質、撮影時の興奮状態などによって異なった動きを見せることを確信した。(浜野志保著「カレンベルクの写真ダウジング」より、『ヴァナキュラー・イメージの人類学』85~86ページ) 上の映像は、佐々木友輔が秋葉原事件の後に行った「場撮り」である。映画『夢ばかり、眠りはない』は、

    佐々木友輔の映像ダウジング - SUPER FLAT 2
  • 浮き上がるものたち - SUPER FLAT 2

    非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について) >そこで問われているのは、Daを構成するより詳細なメカニズム、あらゆるシニフィアンに幽霊=分身(double)としてのエクリチュールを取り憑かせ、かつそれを剥離させる「二重の力」の具体的動きである。「エクリチュールの舞台」とは、痕跡が記載され同時に剥離される亡霊的な空間を意味する。(東浩紀著『存在論的、郵便的』324ページ) 『思想地図』3号の「アーキテクチャと思考の場所」という討議のタイトルがどうしたって「フロイトとエクリチュールの舞台」を思わせることから確認してみれば、最後に磯崎新がやはり「重さ」について語っていた(74ページ)。いわく、いまや重さを誰も感じずに物体の設計をしており、現場でモノに変換できないような図面が大量にできあがっている。物事を操作だけで決めていくと、そこから重

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