おしらせです。5月に神戸で開催される展覧会「言葉のアール・ブリュット 友原康博展」でのトークイベントを行います。 「言葉のサラダ」とも言われる特異な言語感覚で、鋭く社会に突き刺さるメッセージを放ってきた統合失調症の詩人、友原康博。まさに「言葉のアール・ブリュット」とも言うべきその詩は、具体美術協会の嶋本昭三氏や浮田要三氏、『珍日本紀行』で知られる写真家の都築響一氏といったアーティストを魅了してきました。本展はその特異な言語世界を、貴重な生原稿で展示するものです。 友原が集中的に詩を書き綴ってきたのはなんと中学生の頃ですが、1995年に刊行された詩集『いざつむえ 友原康博詩集』は現在では入手困難となっており、古書がプレミア付きで取引されるほど。会期中にはその魅力を考えるトークショーも行います。 トークショーは2部制となっており、1部のゲストは友原さんの「第一発見者」である、美術作家の嶋本昭三
@MiyauchiTaisuke 朝日新聞の昨日の夕刊。池澤夏樹、“革命の物語が消えた先で、なお人間は物語を得ようとする。しかし、文学では現実に回帰してしまうので、むしろゲームの世界での冒険へ向かう”。「で、自分はどうするのか? おいてまだ『革命の物語』に執着して空回りを続けるのか? 文学は荒野だ」。 上記ツイートに見事に要約された池澤夏樹さんの記事をさっき読んだのだけれど、今日びの文学はゲームみたいなもんだと断じるような調子に、私は微妙な違和感を感じた。ゲーム的な物語であるということと、現実から遊離した物語であるということは、ちょっと違うような気がするのだ。たとえば、こないだテレビでアニメの「未来少年コナン」を見る機会があったのだけれど、いま見るとモロに日本のエネルギー政策への批判が込められた物語になっている。しかもメッセージとしてはそうした骨太なものを秘めているのに、物語の枠組みとして
大阪市の近代美術館をやめるという話が持ち上がってるけど、面白いね。大阪市在住の美術作家はどうするのかな。もうさ、いっそのこと大阪府や市の美術行事からは一切手を引くってのはどうだい。作家も学芸員もギャラリストも評論家も一斉スト。例の市長が助成金出さないといってる、文楽関係者やオーケストラもストをしたら良い。大体さ、文楽なんて落語を除けば、大阪が持ってる唯一の古典的文化資産だろ。歌舞伎は東京に行っちゃったし。どうすんの? 文楽もみすみす東京に渡すか? 文化に税金は入れない、つまりは公のものとして認めないって言ってる首長の治める街なんだから、文化的な仕事に携わってると思う人は、いったん全員大阪から出て、文化を一日根絶やしにするくらいのことをした方が良いだろうね。大阪で文化に関わる人たちは一斉休業。物書き、編集者、出版社。電博以下の広告関係者すべて、カメラマン、デザイナー、コピーライター。ファッシ
海外勢が日本の育て上げてきたゴシックロリータの美学を収奪してないか、いっぽう日本ではゴシックロリータを着る人たちが低年齢化してないか、と昨日書いた。もちろんオリジナリティーに富んだ服づくりをしてる人も日本にはいる。たとえばメタモルフォーゼ(metamorphose temps de fille)だ。ここの服は一目見れば、伝統的な服への理解が深くて的確だとすぐにわかる。ただ、その上で当時なら絶対にあり得ないヒネリをいくつも加えてある。異なる時代のモチーフの組み合わせ、当時ならありえない生地の使用、旬なモチーフ、たとえば今年ならマリンの導入などだ。 たとえばセーラー服のイメージを取り入れながら作った服。もともとセーラー服は水兵の服、つまり男が着るもので、これが女子学童の制服になったのは大正時代の日本でのことで、そこには関東大震災が深く関わっている。極東の近代的な制度である「学校」という場所に生
上田安子服飾専門学校での「ゴシック&ロリータ論」の授業のために、ロココ時代の文化についてまとめている。ロココはロリータ文化の大きなイメージ源になっている時代だが、いま改めて思うのは、この時代の文化と政治の密接な関係だ。絶対王政下のフランスでポンパドゥール夫人がロココの花を咲かせているとき、実はイギリスではゴシックリバイバルが不吉な呻きを上げていた。ロココ文化と宮廷の結びつきは言わずもがなだが、実はゴシックと議会制民主主義の間には、奇妙な縁があちこちにあるのだ。 たとえばゴシック小説の粗であるホレス・ウォルポールは、イギリスの初代首相であるロバート・ウォルポールの息子であり、自身も国会議員だった。ホレス・ウォルポールはまたゴシック建築の中興の祖でもあったけど、英国議会の議事堂は19世紀の前半に焼けて、ゴシック様式で立て直されるに至る。やや遅れて初期ゴシック小説の傑作『ヴァテック』を書いたウイ
★ドヤ顔で「売れるもの」という作家 先日、とある若手作家と話していて、コンセプトは? と聞いたらドヤ顔で「売れるもの」と言われた。空いた口が塞がらない。そういう話は内輪でだけやって欲しい。そんなものコンセプトでもなんでもないし、だいいち初対面の人に話すべき事柄ではない。 美術の世界では長らく「売ること=悪いこと」のように言われてきたから、その反動として村上隆さんのような人が「売ってなんぼ」という考えを堂々と示すようになった。そこまではいい。けれども彼は少なくとも「売ること=コンセプト」などとは思っていない。当たり前だ。 売ることは作家としてのスタートであってゴールではない。何を売るのか、何を作品として所有してもらいたいのか。そこが抜け落ちた議論は無意味だし、単に下品なだけだ。売れる売れないの話なんか、作品としての優劣とは何の関係もない。 ゴッホは生前、弟の仕送りで暮らしていた。ヘンリー・ダ
歌人の佐藤弓生さんから、歌集『薄い街』をご恵贈いただきました。 私が感じるところのあった歌を、ここにご紹介しておきます。 http://amzn.to/fbpN3g 「コラージュ・新世界より」 雨。こめかみにふりかかり見あげれば桜のあばらあらわなる冬 ひとりまたひとり幼い妖精を燃やす市あり夜と呼びたり ひとのためわが骨盤をひらくとき湖(うみ)の底なる浴槽はみゆ 花器となる春昼後刻 喉に挿すひとの器官を花と思えば もう声が出ないわたしの頭(ず)の上をまたいでゆきぬ青空紳士 ひらいたらただただしずか そしてまたたたんかたたん各駅停車 最初の歌に出てくる「あばら」の語は、この歌集でわりと多用されている語なのですが、アダムのあばらを折って女性が作られたとする聖書のエピソードを彷彿とさせます。佐藤さんは関西学院大の出身で、私の何級か上の先輩にあたるので、どこかにそういうミッションスクール特有の感覚が
いや、いいんじゃないですか、青少年育成条例改正案。これはいいわ。 「漫画、アニメーションその他の画像(実写を除く)で、刑罰法規に触れる性交もしくは性交類似行為または婚姻を禁止されている近親者間における性交もしくは性交類似行為を、不当に賛美しまたは誇張するように、描写しまたは表現することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を妨げ、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの」 ……はダメなんですと。ということは、まずは近親婚や近親相姦はダメということですね。法律で禁止されてますものね。ということは『火の鳥』も『みゆき』も『日出処の天子』もダメになりますね。なかでも山岸凉子さんのマンガなんかは、相当の部分がダメになるんじゃないですか? 近親相姦に不倫にレイプ、幼児虐待にロリコンですから。手塚治虫だと『奇子』もダメになりますよね。『エヴァ』も母体を連想させるロボットに、ペニスを連想させ
中国文学者の福嶋亮大さんが、近年流行する「クールジャパン」的な美学、そしてその源流にある若冲ら「奇想の系譜」の画家たちについて、非常に面白いことを書いていらっしゃいます。もとはツイッター連投ですが、例によって一続きのテクストにします。 @liang_da 何でもいいですが、たとえば16世紀の狩野永徳(まぁ彼は桃山時代だけど)について、17世紀の『本朝画史』で「怪怪奇奇」と評される。これは辻惟雄言うところの又兵衛や若冲の「奇想の系譜」とも絡むわけだけど、しかし「怪怪奇奇」って別に日本特有の美学じゃないんですね。 実際、16〜17世紀の中国もいってみれば「奇想」の時代であって、董其昌(樋口注:とう・きしょう、明代末の文人画家)や傅山(樋口注:ふざん、明末清初の文人)あたりの書画家は「奇」の作家であり、また演劇や文学についての評論でも文字通り「怪怪奇奇」って言葉が使われたりもする。「怪」をプラス
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