タグ

editに関するgitanezのブックマーク (14)

  • 官能の庭/マリオ・プラーツ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 分厚い。 がではない。自体もそうだが、何よりここに描き出されたヨーロッパの歴史の厚みがだ。しかも、その厚みある歴史というものも、単なる一道の直線的道のりではなく、マニエリスム芸術の蛇状曲線(フィギューラ・セルペンティナータ)のようにうねり錯綜しているし、そもそも、それが未知であるかどうかでさえ定かではない。むしろ、はっきりと刻まれた道ではないところにこそ、実は隠された厚みがある。 確かにそのものの物理的な厚さも読み終えるのに苦労する程度には分厚いのだが、それよりもこのを成す基盤としての知識の厚みに、まず唸る。ヨーロッパの積層した知識の厚みを、この1冊から感じずにはいられないのだ。 そして、何より、その分厚く積層した知識を、物理的にも分厚い1冊として編み上げ、展開す

  • なぜ希望の実現が情報の編集行為と結び付いているのか: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 人間にとって自己実現っていうのは、一体何なんでしょうね。 自己表現欲だとか、他人とコミュニケーションしたがる(特に自分の話を聞いてもらいたがる)というのは何でしょう。 「古代研究―1.祭りの発生/折口信夫」ですこし紹介したように、古代においては天皇が宣る祝詞で予祝(ことほぎ)されたことがらは、現実になると考えられていました。これは言霊信仰につながる話で、天皇のことばだけでなく、「見れど飽かぬ」という『万葉集』に50近くあるといわれる表現が「見る」ことで自然のもつ生命力を肉体に宿らせると考えられていたように、古代人にとっては、ことばや見ることで対象を模倣することでその対象のもつ力を自らに宿らせることができると考えられたのは「古代人にとっての装飾」でも紹介したとおりです。 こう

  • 文字の官能性、書物としての身体: DESIGN IT! w/LOVE

    と書いたこととも重なってきます。 このあたりにピンとこないと、情報やコミュニケーション、発想やアイデア、そして、それらのためのデザインやデザインを通じて情報やコミュニケーションを扱う人びとの能力といったことがわからないだろうと思います。 その意味で、僕らは、もういちど、書物や文字というものの姿をしっかりと見直す必要がある。僕はそう思っています。 書籍の官能書籍も、文字も、当はもっと身体的で、芳しさや艶めかしさをもっているものだし、官能的であり呪的なものだと思います。 例えば、今福さんは『身体としての書物』のなかで、タイトルにもなっている「身体としての書物」ということを考えるにあたり、身体を英語のボディへと翻訳し、それをワイン用語のボディへと変換してつなげることで、さらにボディに対応する日語を探りながら「コク」へと辿りついています。そして、そのコクは漢字で書けば「濃く」であり、それが古語

  • 多読術/松岡正剛: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 これはおもしろかった。すごくおもしろかった。 あとで詳しく書きますが「はノートである」ですよ。服をコーディネートするようにもコーディネートするですよ。これはおもしろい。 『多読術』というタイトルですが、これは多読に関するではないと思います。 それどころか、読書に関するとして読む必要さえないと思います。 何か未知のものに触れるときの方法のひとつだという風にも読める。僕はそういう風に読みました。 読書は「わからないから読む」。それに尽きます。 は「わかったつもり」で読まないほうがゼッタイにいい。 読書は旅のようなもので、「無知から未知への旅」と松岡さんはいいます。 無知からというのは当然として、その先にあるのが単なる知ではなく、未知であるところがいい。 僕も「デザイン

  • 接続詞のない世界: DESIGN IT! w/LOVE

    「情報考学」の「文章は接続詞で決まる」というエントリーを読んでいて、これを思い出しました。 我々が文章のあたりまえのつなぎ方だと思っている「接続」表現を、列挙の方法は用いない 田中優子さんは「日には古代末期から様々な列挙の方法が」あり、「それは近世に至るまで、まさにそれぞれの時代特有の機能をもった」ことを述べ、さらに列挙の方法は、時代や、表現ジャンル、表現内容によってさまざまな形式をとったため、ひとくくりにしては言えないがということを前置きした上で、列挙の方法の大きな共通点のひとつとして、上の引用にある列挙という方法の特徴をあげています。 接続詞がつくる関係性「文章は接続詞で決まる」というエントリーではこんなことが書かれています。 接続詞の一般的な定義は「接続詞とは、文頭にあって、直前の文と、接続詞を含む文を論理的につなぐ表現である」というほどのものだが、書では「接続詞とは、独立した先

  • 知の編集工学/松岡正剛: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 そろそろ、こののことも紹介しておこう。 あまり自身の仕事そのものに関しては書かない松岡正剛さんが、ご自身の仕事の根幹をなす「編集」について、「編集工学」という方法について書いたです。 情報が情報を呼ぶ。 情報は情報を誘導する。 このことは書がたいそう重視していることだ。「情報は孤立していない」、あるいは「情報はひとりでいられない」ともいえるだろう。また、「情報は行先をもっている」というふうに考えてもよいかもしれない。 確かにこの言葉には「編集」というものの主要な性質が凝縮されているように思います。情報を収集し選択し分類すること、対称性、類似、相違、順番などで情報を並べ、要約、モデル化、列挙、言い換え、引用、図解、例示、強調などの方法を用いて編集を行う際、情報同士が呼び

  • 書くスピード、理解のスピード: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 以前に書いた「間違えを恐れるあまり思考のアウトプット速度を遅くしていませんか?」、「スピードを上げたいなら速度を上げるんじゃなくてスタートを早めること」に続く思考・アウトプットのスピードに関するエントリーの第3弾として。 ブログを書いていてよく訊かれるのは、ひとつ書くのにどのくらい時間がかかるの?ということです。 答えは30分から1時間。 そう答えると、自分とそう変わらないことに安心する人もいれば、無反応の人もいます。 前者は自分でもブログを書いてる人、後者は書いてないか頻度が低い人です。 無反応な人の場合後者がなんで無反応かというと、30分から1時間と言われてもピンとこないからなんでしょうね。30分から1時間とわかっても、それが早いのか遅いのかわからない。比較対象としての

  • 「見る・考える・作る」の三位一体: DESIGN IT! w/LOVE

    「考える」とはいったいどういうことなのか? 最近、そのことをよく考えます。 きっかけは8月末の「横浜ワークショップ2008」で寺沢先生がデザインのプロセスを「見る・考える・作る」と簡潔に表現されたのを聞いたことです。 ふむふむ、わかりやすい、と思って聞いていたのですが、後日自分なりに咀嚼しようとしてみて、ふと「見る」と「作る」のあいだにある「考える」って、いったい何なんだろう?と感じたんです。 「考える」は「見る」「作る」のなかに埋め込まれている考えれば考えるほど、僕には「見る」と「作る」のあいだに「考える」がないように思えます。ないというのは「考えていない」ということではなくて、「見る」もしくは「作る」のなかに「考える」は入り込んでしまっていて、「考える」が独立してあるようには思えないのです。 具体的な作業プロセスで考えてそうなんです。 「見る」というのを聞くことなども含めたインプット、

  • アイデア・素材・表現(インフォグラフィックス・ワークショップ 1に参加して): DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日は、TUBE GRAPHICSの木村さんによる「インフォグラフィックス・ワークショップ 1」に、オブザーバーとして参加させていただきました。 今回のワークショップは、「人があつまる 魅力を伝える」をテーマに、5チーム×4名=20名の参加者が、各チームごとに渋谷の5つの商業施設(109、QFRONT、東急フードショー、東急ハンズ、ロフト)を魅力的に紹介する、見開き2ページ想定のインフォメーション・グラフィックスを作成するという内容でした。 なかなかハードなスケジュールのなか、普段からデザイン関連の仕事をされている参加者の方々も苦労して制作物をつくっていました。やっぱり学生中心のワークショップに比べて、みなさん、仕事が早いのが印象的でした。 では、オブザーバーという客観的な

  • まずはテーブルに載せてみなけりゃはじまらない!: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 仕事をしていてよく思うこと。 どうして議論をはじめる前に、手持ちの事実すべてをテーブルの前に開示してみることからはじめようとしないのか? とにかく事実を見ないで仕事をはじめようとすることが多すぎる気がします。どうして自分の頭のなかにあるものをいったん外に出して、まわりと共有することからはじめようとしないのでしょう。自分の頭のなかは他人のそれとおなじだと思っているのでしょうか。自分が「赤」だといえば、それを他人もおなじように「赤」だと感じてくれると思っているのでしょうか。 議論の箱、そして、問題解決のボックスに入れるべき事実が目の前に提示されていなければ、どういう箱をデザインしていいか、そもそも箱のデザインのための議論をどういう方向にデザインしていいかもわからないはずです。僕

  • 17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義/松岡正剛: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 あー、このが売れてる理由がよくわかりました。屋でたまに見かけて、なんでずっと平置きされてるんだろ?とかなんとなく思ってたんですけど、読んでみて理由がわかりました。 松岡さんのでは一番読みやすく、かつ松岡さんが他ので言っていることがわりと集約されてるんですね、この。 この、買ったのは結構前なんです。この続編にあたる『誰も知らない 世界と日のまちがい』を読んだのが今年のはじめ。それを読み終わるかどうかという時期にこのも買っていたはずなんですね。でも、買っただけでなんとなく読まなかったんですけど。 それがこのあいだ、『山水思想』を読んでみて続けて、松岡さんのを読みたいなと思い、読みはじめたんです。 このは帝塚山学院大学・人間文化学部向けに行われた講義を再編集し

  • 結合術(アルス・コンビナトリア)に関する断片: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 バラバラの断片をどうつなぐか。 最近、「結合術(アルス・コンビナトリア)」に関心があるので、いくつかの書籍から断片を拾ってメモ。 マーシャル・マクルーハンの遺著『メディアの法則』も近々邦訳が出ますが、副題に「新しき学」をうたっていることからもわかるように、つなげよう、似ているところを見つけようとする仕事でした。「メディア」を来の「間をつなぐもの」という意味に帰そうとしている。メディアって、もともとは人と神をつなぐ巫女のことですからね。 まず、断片をつなぐ仕事がメディアの問題であるということは了解。では、そのメディアとは何なのか? タブローの上に断片を並べて視覚的に編集するスタフォードに教えてもらったのが17~18世紀の「驚異博物館(ヴンダーカンマー)」がそれにあたりそうだ

  • 一見縁遠きものたちの間に脈絡を付ける: DESIGN IT! w/LOVE

    僕って書いてみないとわからない人なので書いてみるよ。 まずは松岡正剛さんと茂木健一郎さんの対談集『脳と日人』から松岡さんの発言を引用。 遠くを感じることが近さを強化していくんです。ニュートンのリンゴと星の関係のようにね。 これに対して「一見縁遠きものたちの間に脈絡を付けるということですね」と茂木さん。まさにこれは松岡さんのいう編集という方法の成せる業ですね。 また、この話は茂木さんのクオリアもここに重なってくるし、茂木さん自身「5年ぐらいほぼ毎日、日記をつけつづけています」というクオリア日記の意味も「脈絡を付ける」試みとして読むことができます。 ニュートンがリンゴと星という無関係なものの「脈絡を付ける」ことで偉大な発見をしたように、発見にはこの遠くのものと近くのもののあいだにいかに「脈絡を付ける」かということが欠かせないのだと思っています。このブログが時折、日歴史に言及しているのもそ

  • 編集指向アーキテクチャ (arclamp.jp アークランプ)

    arclamp.jp アークランプ ITアーキテクトが、ビジネス書とかデザインとか建築とかからシステム開発を妄想するブログ 妄想モードで。 オブジェクト指向の限界 そもそも、現状のオブジェクト指向は現実を表現するのに向いていません。 オブジェクト指向の原点は、世界はオブジェクトで構成されており、それぞれのオブジェクトが自立的に自己を表現しているというものです。しかし、現実の世界はそんなに単純ではありません。 単純な例であればデータ層に近いモデルとプレゼンテーション層に近いモデルがミスマッチを起こすことがあげられます。オブジェクトは絶対的な存在ではなく、受け取る人にとって微妙に定義が異なるものなのです。 これは人々が会社にいるときと家にいるときで振る舞いが変わることからも分かります。それは求められる役割が変わることでもあり、自らが態度を変えているからです。 AOPや動的言語のアプローチ

  • 1