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lifestyleとdesignに関するgitanezのブックマーク (16)

  • マーケット・インサイト|株式会社コプロシステム

    「買いたくなる商品づくり」「買いたくなる仕組みづくり」をキーワードに、マーケティングやプロモーションに関する新しい手法や情報、商品や市場についてのコプロシステムの視点などをご紹介するブログです。

    マーケット・インサイト|株式会社コプロシステム
  • 食とコミュニケーション: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 さて、以前にこのブログでも話題にしたライフスタイル研究会のその後。 実は(仮)もとれて、正式に「ライフスタイル研究会」として活動をスタートしている。 活動のテーマとしては、まず第1弾のプロジェクトとして、やキッチンまわりのライフスタイルを考えていこうとなって、先週の土曜日にキックオフの会議を行った。 その中では、料理とかキッチンということを考える際には「料理を作る」というところにフォーカスするか、「料理べる」というところにフォーカスするのかで違いがありそうだねという話をしたり、料理のまわりに人が集まることによるコミュニケーションの形というのを考え直したいねという話になった。 「生の材を調理(裁断、加熱、調味など)によって、人間がべられる料理にする場所」というのが僕

  • デザインの余白: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 特に民藝の品のように手作りであるがゆえに、1点1点が違う場合には、お店で同じ商品を選ぶ場合でも、どれがよいかと選ぶ楽しみが加わります。 ちょっと前までは、お店で買う時に良いなと思って買った物が使っているうちに、ちょっと違うなという違和感が出てきてしまったんですが、最近はそれが減ってきた。使うときに良いなと感じるだろう物をお店で選ぶことができるようになってきました。まだまだ自分の気に入る物を選びきれるようにはなってませんが、それでも観て使った数を重ねるほど、観る目が肥えてきたのかななんて思います。 これはもちろん、人間が作った物には限らないですよね。そもそも木や石はみんな違う形をしている。 今日、小石川後楽園に行って梅まつりを観てきましたが、とうぜん、梅の木はぜんぶ違う。園内

  • 備後屋: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 備後屋:http://www.quasar.nu/bingoya/ 備後屋は全国各地の民藝品を扱うお店。 場所は大江戸線・若松河田駅の河田口を出てすぐ。ローソンの横の白い建物。 扱う品は、陶磁器、染物、織物、竹工品、木工品、漆器、藁工品、金工品、紙工品、ガラス器、郷土玩具、民藝家具などです。どんなものかは備後屋さんのホームページの「売場案内」に写真がありますので参考に。 店内でも海外のお客さん向けの提案などがありますが、実際、海外の方への贈答品として使えば、きっと喜ばれるのではないかと感じる品物もたくさんあります。 いや、この品物の品格の良さであれば、日人でもある程度、物の良さを知った大人の方なら贈られれば嬉しいんじゃないでしょうか。僕だったらここの物なら大抵何をもらって

  • 自然の力にあやかる: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 うちの梅はまだ咲きません。咲くまでにはもうすこし時間がかかりそうです。 梅の盆栽をいただいてから1年経ちました。それをきっかけに、うちにもこの1年でいろんな植物が増えました。 日々、水をやったり世話しながら見ていると、植物の変化ってほんとに面白い。冬を越してこの季節になると梅のつぼみは膨らんでくるし、初夏にはきれいな色の若葉が芽吹きます。5月から夏くらいまではどんどん枝葉を伸ばして成長する。山もみじは秋になれば色づきます。小さな鉢でもちゃんと季節を感じさせてくれます。 そんな植物の面白さと人間はどう付き合うか。付き合ってきたのか。 植物の力白洲正子さんはこんな風にいいます。 人間に自分に合った家が必要なように、花にも落着く場所が必要で、今の生け花がよくないのは、器のことをち

  • "ほんもの"の生活?: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「誰かの家のインテリアデザインをしようとしたら、施主がどんな人柄で、何人女がいて、何人子供がいて、どんなを読む人で、人生に何を求めているかなど、その人となりのすべてを知らなければなりませんからね」 これがアキッレ・カスティリオーニが他人の家のインテリアをつくるのを「無理な話」という理由だそうです。 家というのは一挙にできるものではない昨日、紹介した『アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン』にはこんな一文もある。 家というのは一挙にできるものではない。建築家がすべてつくって鍵を渡す瞬間が家の完成時ではない。家とは時間をかけて少しずつそこに住む人の人生とともにつくられていくべきものなのだ。 こんな考えをもっていたカスティリオーニだから住宅のインテリアデザインの

  • 旧白洲邸 武相荘: DESIGN IT! w/LOVE

    書斎は「家の中で最も落ち着く場所」場所は、小田急線の鶴川駅から徒歩で15分ほど、歩いたところ。 太平洋戦争がはじまる2年ほど前から東京の郊外で田圃と畑のついた農家を探していて見つけたという武相荘は、いまなお、農家の佇まいを感じさせつつも、牛を飼っていた土間は洋間へと改造されていたり、白洲正子さんのセンスを存分に感じさせてくれていました。 例えば、門の傍らに何気なく並べられていた不揃いの椅子なんかもなんとなくいいなと感じてしまうのは、白洲マジックでしょうか。 邸内は撮影禁止ということで写真は残念ながらありませんが、正子さんが生前「家の中で最も落ち着く場所」と語っていたという奥の書斎は、折口信夫全集や南方熊楠全集が並んでいる棚が壁いっぱいに据え付けられていて、その奥に正子さんが執筆していたであろう机が窓辺にあり、その小さな空間が僕にも確かに邸内で一番いい場所だなと感じられたり、生涯煙草を吸い

  • 生活のなかで養われる物を見る眼: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 物を実際に使うことで、物を見る眼が研ぎ澄まされていく。 当たり前といえば当たり前のことですが、どうやらこれは機能面や使い勝手の面での批評眼だけにいえる話ではなくて、見た目での意匠・スタイリングの面での評価でもいえそうなことだなという気がしています。何かにこだわりをもって使用するなかで、よいと感じる意匠の幅が広がったり、評価する眼を変化させたり、そういう変化が生じる「使う」という行為と「見る」ということの関係というものを、あらためてきちんと捉えてみたいと考えるようになりました。 自分の生活・身体に密着した眼で物を見るそもそも人が「物を見る」という場合にも、どの程度の深さで見るのかという意味で、見方のレベルには違いがあると思います。「お金を払って購入するために見る」「お金を払っ

  • 考える・暮らす・行動するをつなげて、自分のスタイル・歴史をつくる: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「自分の暮らしに興味がないんだから、人の暮らしの提案なんか、そりゃできないよなという話」というエントリーにトラックバックいただいた、インテリアハックさんのこのエントリー。なかなか言いえてるなと感じました。 「理想のライフスタイル」というものは、ある日突然、お金と引き換えにまとめて手に入る。というものでは決してありません。日々の生活の細かな所を少しずつ自分に合わせて良くしていった結果、いつの間にかその状態になっている。というのが当のところなのではないかと思います。 上のエントリーでも、<情報やノウハウといったものは、自分で実践してみて始めて身に付くものである、というのは、多くのいわゆる「勉強」などでも言われていることです。>とも書かれていますが、これはまさに最近書いた「「

  • 自分の暮らしに興味がないんだから、人の暮らしの提案なんか、そりゃできないよなという話: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近も「Fw:フィリップ・スタルク「デザインに嫌気」、2年以内の引退を表明」や「デザイナーであると同時にスタイリストであればいいのかも」というエントリーを書いてみたり、デザインって今後ライフスタイルを提案する方向に向かわないとだめだよねー的なことを書いているわけですが、でも、いっぽうで「ちょっと待てよ」と思う自分もいたりします。 どのへんが「ちょっと待てよ」なのかというと、そういう自分自身が自分のライフスタイルってのをつくりこめてないよねーって感じるあたり。 これに関しては、『なぜデザインなのか。』のなかで原研哉さんも似たようなことを言っています。 原 関東大震災のあと、西山卯三さんが2DKというのを考案した時は、結構まじめに日の住空間の研究をやったし、同潤会アパートなん

  • Fw:フィリップ・スタルク「デザインに嫌気」、2年以内の引退を表明: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「デザイナーであると同時にスタイリストであればいいのかも」へのはてブのコメント経由でid:activecuteさんに教えてもらった、この記事。建築家/インダストリアル・デザイナーとして知られるフィリップ・スタルクさんが「私がデザインしたもの全ては不必要だった。2年以内には確実にリタイアし、何か他のことをやりたい」と言ってるのを伝えるもの。 あー、まともにデザインとか考えてる人のなかにはこう考えちゃうようになる人もいるのか、と思ったのが下記の部分。 「今後デザイナーはいなくなるだろう。将来のデザイナーは、パーソナルコーチや、ジムのトレーナー、ダイエットコンサルタントになるんだよ」 僕はスタイリストが必要って書いたけど、この感覚もわからなくはないんですよ。モノのスタイリングを通

  • フィリップ・スタルク「デザインに嫌気」、2年以内の引退を表明

    パリ市内のポンピドゥーセンター(Centre Pompidou)で行われた展覧会「Histoire des trente」に姿を現したデザイナーのフィリップ・スタルク(Philippe Starck)(2007年2月12日撮影)。(c)AFP/MEHDI FEDOUACH 【3月28日 AFP】建築家/インダストリアル・デザイナーのフィリップ・スタルク(Philippe Starck)が、デザインの仕事に嫌気が差し、2年以内にリタイアする予定だと、27日付けの独週刊紙「ツァイト(Die Zeit)」のインタビューで明かした。 スタルクは「私がデザインしたもの全ては不必要だった。2年以内には確実にリタイアし、何か他のことをやりたい。まだそれが何かはわからないけど。自分を表現する別の手段を見つけたい。デザインとは、忌むべき表現形式だ」とコメント。 「今後デザイナーはいなくなるだろう。将来のデザ

    フィリップ・スタルク「デザインに嫌気」、2年以内の引退を表明
  • デザイナーであると同時にスタイリストであればいいのかも: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ちょっと前に「ライフスタイルの提案力をなくしたデザイン」に関連する話でちょっと思いついたことをメモ。 そこで書いたのは、 「誰もが他からの強制(力)を受けることなく、自らの生活様式を決定し、自由なデザインを使うことができるのだという前提を条件のひとつにして」「理想的生活や環境へのプロジェクトとしてあった」近代デザインという大きなプロジェクトは、「今日ではほとんど忘れられている」状況で、もはや何のライフスタイルの提案も生活環境の提案も行われることのない状況になっているわけです。 ということ。 僕の感覚ではどうもいまの世の中的に、デザイナーはモノのデザインはするけど、それが生活のなかでどう使われていくのかということが考えられずに、モノがデザインしているように思えてならないのです

  • 京都の意匠&京都の意匠2/吉岡幸雄+喜多章:DESIGN IT! w/LOVE

    『京都の意匠―伝統のインテリア・デザイン』と『京都の意匠Ⅱ―街と建築の和風デザイン』を読みました。 ここに収められたものは、京都に生まれ育った私の、50年余りにわたる「眼」の記憶である。 京都の街を遊行していて、印象にのこったさまざまな意匠を拾い集めたものである。 と語る京都在住の吉岡幸雄さんが「建築空間を写して今や第一人者と信じる写真家、喜多章氏と5年間にわたって京の街を行脚し、カメラに納めてもらったこの写真」とともに、京都の意匠を自身の体験などを交えて紹介する素敵なです。 そのサブタイトルどおり『京都の意匠―伝統のインテリア・デザイン』では玄関・窓・引手・釘隠し・欄間などの住宅建築の室内の意匠を中心に、『京都の意匠Ⅱ―街と建築の和風デザイン』では門・塀・垣・屋根・看板・暖簾・路地などの外部空間に面した意匠を中心に扱っています。 古い町屋や文人宅、寺社建築などの意匠を紹介した写真や文章

  • ユーザー中心のデザインの最初には明確な哲学・ヴィジョンが必要であるという意味: DESIGN IT! w/LOVE

    興味深い疑問なので反応しておきます。 が、ここで分からないのが「豊かさ」ということはどういう基準によって計られるかということだ。もちろん、「楽しい」ということの基準も不確かであるが、直感的には感じ取れる。が、自分が豊かであると感じるのはどういう瞬間であるのだろうか。 まず、ここで書かれている<「豊かさ」ということはどういう基準によって計られるか>という疑問自体が非常に「近代」的だという気がしています。僕が最近使っている言葉でいえば「ユニバーサル」なもの、「普遍的な」規格を想定してしまいすぎる病にかかってしまっているのだと思います。 近代が目指した一元的な規格化近代の取り組みは良くも悪くも、 ドイツで1920年代に登場した機能主義の建築とデザインは、別名「国際様式(インターナショナル・スタイル)」と呼ばれるように、歴史文化の違いを超越した客観的「規格」であるところに、その世界的な浸透力があ

  • ライフスタイルの提案力をなくしたデザイン: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 先日、紹介した『近代デザイン史』というに、こんなデザインの定義がありました。 デザインとは、 目的性=「構想・提案」する製品化=「制作・生産」する社会的効果=「受容・消費」する という無限にフィードバックされる流れを前提とする「知的もの作り」である。 単なる「もの作り」ではなく、人と人、人とモノ、モノとモノの関係性を創造的に模索すること、これこそデザインの質としてよいだろう。 この定義に関しては、僕としては「まぁ、そうでしょう」と非常に納得したので単なるメモとして紹介。 今日の題は、じゃあ、現時点でデザインは「人と人、人とモノ、モノとモノの関係性」として何を「創造的に模索」して、「構想・提案」して「制作・生産」して「受容・消費」を促していくことが必要なのかということを

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