昨日の続きのような話。1960年代に、沖縄の本土復帰前に本土で作られた「さとうきび畑」という歌だが、歌詞のなかにこういうフレーズがある。 ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ 風の音にとぎれて消える母の子守の歌 夏のひざしの中で 本土の人間である私などには郷愁を感じさせるメロディーに「母の子守歌」とくると、赤ん坊を抱いた若い慈母を連想してしまう。おそらく作詞者もそれを意図したのだろうと思うが、ふと、それは何の子守歌だろうと連想して、妙なものを思い出し、変な気持ちになったことがある。沖縄で暮らしていたころのことだ。 この話は、今回書いた『考える生き方』(参照)の原稿にも書かなかった。生活人としての自分との関わりのなかで見える沖縄の像とは離れてしまうからだ。 「妙なもの」というのは何か? その前に、「母の子守歌」という表現にも少し違和感があった