林 望 言葉というものは、時代につれて目まぐるしく変異していくものと、たとえば「黒い」「食う」のごとく、千古不易的なものと、両方あるのは誰も知る通りである。 私は、学生のころ、勉強のなかでは、古俳諧を読むのがなにより好きだった。最小限の言葉の容量のなかに、最大限の「意味」を込める文芸、その読解には、「読む」という営為の最本格の面白さがあったからである。しかし、そこに落とし穴もあって、最小限の言葉に最大限の意味ということになると、つまり、一つの表現に込められたものは想像以上に多様で重くなる道理だ。そうすると、当時の俳諧師が洒落たつもりで、流行語などを詠み込むと、その流行語がたちまちに廃れたのちになっては、いったい何をいっているのかちっとも分らないということが生じてくる。近世初頭に流行した旗本奴連中の仲間言葉「奴言葉」もそれで、芭蕉の出世作『貝おほひ』に、しばしばその種の俗語が交えてあるために