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ブックマーク / arisan-2.hatenadiary.org (32)

  • フーコー - Arisanのノート

    午前中気が向いて、積読だと思っていた『フーコー・コレクション』(ちくま学芸文庫)の「狂気・理性」という巻を開いてみた。 フーコー・コレクション〈1〉狂気・理性 (ちくま学芸文庫) 作者: ミシェルフーコー,小林康夫,松浦寿輝,石田英敬,Michel Foucault出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2006/05/01メディア: 文庫購入: 3人 クリック: 21回この商品を含むブログ (38件) を見る 読んだは包装紙を外す習慣で、外してないので読んでないと思い込んでたのだが、興味のあるところは読んで線を引いてあった。 最後に、フーコーが日に来たとき(70年ごろか)のインタビュー「文学・狂気・社会」というのがあり、それは未読だったので、ざっと読んだ。 聞き手は、渡辺守章と清水徹。 そのなかでフーコーは、68年の経験によって、フランスの知識人や文学者は、大学教育や文学について、それ

    フーコー - Arisanのノート
  • シャコ世界の漠然としたイメージ - Arisanのノート

    きのうシャコのことを書きましたが、ぼくのイメージで一番現状に近いかなあと思うのは、世の中全体が巨大な一匹のシャコだというもの。 つまり全員が透明に近い、非常に柔らかい、けれども剥がすことが絶望的なほど困難な殻で全身を覆っている。それは自分と他人(や世界)とを隔てているものだといえるけど、私とあなたとはその殻自体を共有している。言い換えれば、殻を持つことでつながっている、ともいえる。 で、この殻は単一で、だからこの社会のメンバー全員が総体として一匹のシャコだともいえるけど、その殻の持ち方・度合いみたいなものが、一人一人微妙に違う。そのことで個々人の差異が生じてるわけだけど、見方を変えるとやはり全体で一匹のシャコでもある。 そして、おのおのが(全員にとって単一で、持ち方・度合いだけが異なる)一枚の柔らかい殻によって、自分を世界から隔てている。 このイメージの帰結は何かというと、ある誰かの殻を剥

    シャコ世界の漠然としたイメージ - Arisanのノート
  • シャコと暴力 - Arisanのノート

    この話は、最近書いてることとは、直接関係ないです。 先日、所ジョージが司会をしてる番組を見てたら、海に居るシャコのことをとりあげていた。 それによると、シャコという生き物は、地球上の生物のなかでもっとも凶暴ではないか、と言われてるそうだ(人間は除くんでしょね。)。 どういうことかというと、動物でいうと前足にあたるような部分、カマキリの鎌みたいになっている部分があるのだが、そこが強力であり、それを使って獲物や外敵を攻撃するらしいんだけど、一般にどんな生き物でも捕や防御に必要な限度でしか攻撃しないのに、シャコは、相手を徹底的にやっつけ続けて粉々にしてしまうまでやるらしい。 こんなことをする生き物は、地上にも海中にも他にいないと、生物の専門家は語っていた。 実はぼくは、このシャコというものが、べ物としてはたいへん好きで、瀬戸内海でとれたものをスーパーで買ってきて、以前は家で湯がいて皮をむいて

    シャコと暴力 - Arisanのノート
    gnarly
    gnarly 2009/02/01
    "柔らかいものは凶暴で、暴力的なものは退避的なのか。/では一体、「柔らかい(攻撃を受けやすい)」ということと、「過剰に攻撃的である」ということとは、どちらが先立っているのか?"
  • 神長さんのインタビューのこと - Arisanのノート

    前にちょっとだけ書いた、『オルタ』に載った神長恒一さんのインタビューに関連したこちらの記事だが、語られているエピソードが、あまりにもよく知っているパターンのものなので、思わずブックマークした。 といっても、「ダメ連」の方とはまったく付き合いはないし、活動の内容も、このインタビューで紹介されてるようなこと以外はほとんど知らないので、その活動とか行動に関してはあまり言えない。 ただ、これは「ダメ連」的なものの影響がきっとあるんだろうと思うけど、このような場面は身近で見て、色々考えたが結論が出なかった、ということである。 とりあえず、神長さんのインタビューのどこが面白かったのかを書いてなかったので書くと、これは読んでない人には不親切になるが、つまり神長さんという人は90年代後半に「ダメ連」の中心人物だった方らしい。これは発足当初は一種の左翼的な運動としてやっているという意識があり、活動も共同保育

    神長さんのインタビューのこと - Arisanのノート
  • 死刑になりたい - Arisanのノート

    きのう書いた『パラダイス・ナウ』だが、映画の宣伝サイトに掲載されたインタビューの終わりの部分で、監督のハニ・アブ・アサドは、次のように述べている。 http://www.uplink.co.jp/paradisenow/interview.php 劇中でスーハがサイードに「日ミニマリスト映画みたいな人生よ」と言うシーンがありますが、このミニマリスト映画とは『ユリイカ』(青山真治監督)を思い描いて入れました。また、実はこの映画の画面の構図は、何シーンか『ソナチネ』(北野武監督)から影響されています。知らない世界を体験し、感じることができる、それが映画の魅力ですね。 実際、この映画を見た人の多くは、北野武をはじめとした、現代の日映画作家たちの作品を思い出しただろうと思う。 それは、それを肯定するかどうかは別にして、未来を閉ざされ閉塞した日常に置かれている若者たちの生の力のひとつの発現と

    死刑になりたい - Arisanのノート
  • 過去を乗り越えられない国 - Arisanのノート

    李明博大統領が来日しているが、彼は就任前、日に謝罪や反省を要求しない、という趣旨の発言をした。 http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=95058&servcode=200§code=200 この発言は、韓国国内では物議をかもしたようだが、日に対するこうしたスタンスは、基的には金大中政権以後変わっていないと言えるだろう。 「要求しない」ということは、「要求できること、要求するべきことがあるが、それをしない」ということである。 謝罪や反省するべきこと、言い換えれば清算するべき過去の問題が存在しないという考えなら、端的にそう言うだろう。 「要求するべきこと」があるのに「要求しない」ということは、それほど経済面での交流や、両国の国民感情などの部分での改善が進むことを望んでいる、というメッセージだ。 決して、「忘れた」とか「水に流す

    過去を乗り越えられない国 - Arisanのノート
  • イージス艦・批判の責任 - Arisanのノート

    毎日新聞の報道によると(3日付3面)福田首相は2日、首相官邸で記者団に石破氏の続投を強調した折り、行方不明になっている吉清さん親子の家族からの手紙に、 『石破氏にしっかりと事故が起こらない体制を作ってほしい。決して辞めればいいというものではない』 と書いてあったことを明らかにしたそうである。 大臣を解任するかどうかという政治判断の責任を一私人の言葉に、しかも国の責任によって起きた事故の被害家族の私信の内容を明かしてしまうことで委ね、自分たちの政治的地位の維持に利用しようとは、恐れ入った了見だ。 ここには、「被害者がこう言っているのだから」ということを盾のようにして、多くを語ることが出来ない、傷つけられた弱い立場の人々の存在と言葉を利用することで目的を果たしていこうとする、権力を持つ側の悪質な政治姿勢が見てとれると思う。 いわば強いられた沈黙や表現を、その込められた意味に対する人間的な想像力

    イージス艦・批判の責任 - Arisanのノート
  • 欲望とその権能 - Arisanのノート

    『キリンが逆立ちしたピアス』より 「欲望は禁止できない、しかし…」 http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080214/1202980795 児童ポルノ規制の問題について書かれた東浩紀氏の文章を紹介しながら、書き手のfont-daさんは、「欲望は裁けない」という東氏の言明に基的には賛同しつつ、以下のように語る。 (前略)私もこれに賛同する。暴力を振るうことは禁じることができるが、暴力を欲望することは禁じられない。 その上で、私はその立場にあるのならば、次の責務があると考える。それは「欲望を行為に移さないシステムを考える」という責務である。相手を傷つける欲望を持っていても、その欲望をコントロールする方法が必要である。その方法を、いかに習得できるのか、という問題は、今、まったく解かれていない。欲望を肯定し、行為と切り離す以上、いかに切り離せるのかにも言及する必要があ

    欲望とその権能 - Arisanのノート
    gnarly
    gnarly 2008/02/19
    "欲望が他者とのあり方を決めたり、ときには破壊したりする力なら、その欲望の現実に対する権能を、現実の権力関係の検討と批判を通して、私たちは自分のものにすることが出来る、ということ"
  • 今日思いあたったこと - Arisanのノート

    ちょうど二年ほど前に、こういうエントリーを書いた。 http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20051130 このなかでぼくは、浅田彰が、晩年のジュネの「擬似家族」幻想について語っている文章を引用している。 浅田  こうしてジュネが同性愛を「ホモネス」に基づく非関係というところまで突き詰めていったということは押さえておく必要があると思います。しかし、そのことが後になって逆説的に別種の関係を可能にする。最終的には、ブラック・パンサーやフェダインの「傍らに」――彼らと「共に」ではなく――あって、彼らの政治闘争に必要なこと以外は発言しない、といった不思議な関係がそれですね。ただ、その前に、もう少し身近なところで見ても、一種の擬似家族みたいな幻想があるでしょう。ジュネが愛する男たちというのは、ほとんどバイセクシュアルで、結婚して子どもができたりするのだけれども、奥さんや子どもまで

    今日思いあたったこと - Arisanのノート
  • 再びベジタリアン考 - Arisanのノート

    先日、ベジタリアンの友人たち(ベジタブルズ、とでも呼んでおこう)と一緒に行動したとき、感じたこと。 肉や魚がダメで、野菜しかべられない(もしくはべない)。そうなると、外のときのお店選びも結構たいへんである。今回、一緒に動いてみて、想像以上に探すのがたいへん、というか、めんどくさいということがよく分かった。 もともと体質的に受けつけられない、ということならともかく、いや、ともかくじゃなくて、その方がほんとに大変だというべきだろうが、まあそれは別にして、自分の意志なり感情なりでベジタリアンの道を選んだ人というのは、この大変な日常を生きることを選んだことになる。 その人自身が、それをどのぐらい苦にしてるかは分からない。それは自分にとっては自然なこと、というふうに言うかもしれない。でも、というかそれは、「大変である」「苦になる」そのこと以上に大事なこと、もっと大きな自由を得たい次元みたいなの

    再びベジタリアン考 - Arisanのノート
  • 私たちの「身近な希望」としてのベジタリアン - Arisanのノート

    に一時帰国中の友人、id:blackpawさんが、仕事の関係で関西に来られていて、わざわざぼくの家の近くまで訪ねてきてくれた。最近書いてるような事情で、あまり時間がとれなかったのだが、午後の数時間、連れ合いさんのランさんを交えて三人でお話した。 ぼくが口下手(書くのも下手だが)なこともあり、もっぱら日語が猛スピードで上達中のランさんの話を二人で聞くような形になって、ぼくはとても面白く時を過ごせたのだが、通訳もしなくてはいけなかったblackpawさんはずいぶんくたびれたと思う。お疲れ様でした。 ランさんは、イスラエルの出身だが、アメリカの大学で日近代史(植民地支配の問題など)を研究していて、いま日に一時滞在して調査などをしてるらしい。有名な日研究者ハルトゥーニアンの弟子になるそうである。 日アメリカ歴史研究の傾向(非政治性)への疑問や、日の平和運動に関して、またグローバ

  • 『若者の生活と労働世界』から、湯浅・仁平論考に関して - Arisanのノート

    若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか 作者: 田由紀出版社/メーカー: 大月書店発売日: 2007/05メディア: 単行購入: 6人 クリック: 207回この商品を含むブログ (41件) を見るこのの最終章、『若年ホームレス 「意欲の貧困」が提起する問い』(湯浅誠/仁平典宏)と題された章が、ぼくにはたいへん刺激的だったので、内容を紹介してみます。 なお一部分、ぼくの解釈が混入しています。できるだけ原典に当たってください。 この章では、「意欲の貧困」という言葉が重要なキーワードになって論が展開されている。「格差」や「不平等」でなく、「貧困」こそ今の日の問題である、という言い方は最近よく目にするようになったが、一般にはたいてい心理主義的ないし道徳的に語られる労働に関する「意欲の欠如」という事柄を、その「貧困」の一種として位置づける試みは、はじめて目にした。 一般に「ニー

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  • 最近のコメント欄から - Arisanのノート

    このところ、各エントリーのコメント欄に大量の匿名の書き込みが続いていて、すごく困ってます。 ほとんどは、「早く左翼教、文学教を脱して、あなたも現世教の信者に!」といった趣旨の内容で、「間に合ってます」という感じなんですが、いくつかすごく気になったコメントがありました。 それらについて、少し思ったことを書いてみます。 ひとつは、『06年最後のエントリーは、労働運動について考える』と題をつけた昨年12月31日のエントリーのコメント欄から。 http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20061231/p3 こんなふうに書いてあります。 さっきからさ。”イメージ”だの、”思う”だの あいまいな言葉ばかりつかってるけどさ・・・ 実際に働く人に接したことないの? 働く人たちの組織に接して彼らの意見を じかに肌に触れて感じたことないの? かれらの息遣い感じたこと無いわけ? 彼らの愚痴聞い

    最近のコメント欄から - Arisanのノート
  • 『インカの反乱』 - Arisanのノート

    こうした伝説や作り話をいちいち額面どおり受けとる必要は少しもない。しかしそれらを濾過器にかけてみれば、われわれの必要とするものがそこに残るだろう。(チェーホフ「たいくつな話」) インカの反乱―被征服者の声 (岩波文庫) 作者: ティトゥ・クシ・ユパンギ,染田秀藤出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 1987/12/16メディア: 文庫購入: 1人 クリック: 10回この商品を含むブログ (5件) を見るインカ帝国では、1500年代の前半にスペイン人が一応の「征服」を行ってからも、インカ族などの現地の人たちの抵抗が数十年にわたって続き、スペイン国王による安定した支配体制は1572年になるまで確立されなかったそうだ。 インカ族による「反乱」は、当初スペイン人を「同盟者」として、また客人として受け入れたにもかかわらず、スペイン人に裏切られて拘束されることになった皇帝マンゴ・インガという人の行動に

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    gnarly
    gnarly 2006/10/27
  • 詳述・釜ヶ崎FW - Arisanのノート

    前回書いた、土曜日の釜ヶ崎でのフィールドワークだが、もう少し具体的な情報と感想を書いてみる。 これは、ぼくが聞いて理解したり、考えた内容なので、不正確な点や誤りがあるかもしれないことをお断りしておきます。 事実関係の誤りなどについては、指摘していただければ幸いです。 「全国の寄せ場化」 スポーツ新聞や携帯のサイトなどをとおして、いくらでも若い安価な労働力が確保できるようになった、いわゆる「全国の寄せ場化」と呼ばれる状況のなかで、釜ヶ崎に多い高齢の労働者たちは、景気が回復しても日雇いの仕事につけることが少なくなり、「ドヤ」に泊まるお金もなくなって、路上などでの野宿生活におちいることが多くなった。 買い手有利の状況で、手配師などによる労働者の選別が行われ、一定の年齢以上の人は、それだけで「就労できない層」に選別され固定化される。そういうことがひどくなった。 釜ヶ崎の労働力は、もともと「不要」と

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  • 続・釜ヶ崎夏祭り - Arisanのノート

    15日は仕事が終わってから、きのうに続いて釜ヶ崎の夏祭りに行った。 公園に着くと、ちょうど相撲大会が大詰めで、たくさんのおじさんや女の人たちが取り囲んで楽しそうに見つめている。その雰囲気は、日というより、どこか第三世界の国にいるみたいだった。 ぼくからすると、ほんとうに不思議な場所である。 相撲大会の後、昨年から釜ヶ崎で亡くなった人たちの慰霊をするということで、地元の神父さんらしい方が、聖書を読んで祈りをささげられ、音楽が奏でられ、集まった人たちで黙祷する。 このとき、路上などで亡くなった人たちに対して、すごく申し訳ない気持ちになった。 自分は、この人たちをそういう形の死に追いやった側の人間であるという気がした。そういうふうにはっきり感じたのは、このときが初めてだった。 そうおもうと、自分がこの場所に来て、ここの人たちに混じって、それ以上に祭りを楽しんでいるということが、後ろめたくなって

    続・釜ヶ崎夏祭り - Arisanのノート
    gnarly
    gnarly 2006/08/16
  • 釜ヶ崎夏祭り - Arisanのノート

    14日、西成・三角公園の釜ヶ崎夏祭りに行く。 夕方、コンサートが始まって五組が出演。8時から盆踊り。 地元のおじさん、おばさんたちのための、いいお祭りになっていたとおもう。 準備・出演されたみなさん、ご苦労様でした。というか、明日もあるのだが。 コンサートに出たミュージシャンの人は、特別有名な人は出なかったが、それぞれにこの地域やお祭りと深い関わりをもってきた人たちのようで、おっちゃん、おばちゃんたちとすごく馴染んでいるのがよかった。 こういう、こじんまりした、地元の人たちが親しめる感じのイベントも悪くないものだ。 なにしろ、この人たちのための祭りなんだから。 どの人も、自分の仕方で、気持ちを音楽にこめてここの人たちに届けようと心を尽くしているのがわかる。 とくに、最後に出た今里哲さんという、鶴橋出身のシャンソン歌手の人、美輪明宏っぽい感じの人だが、この人のステージは、舞台の袖に殺到して踊

    釜ヶ崎夏祭り - Arisanのノート
    gnarly
    gnarly 2006/08/15
    「ヨイトマケの歌」が苦手だという気持ちはわかる uprise≠立身出世
  • 人間関係について - Arisanのノート

    ブログのトップに掲載している北海道でのワークショップに、急遽参加することにした。都合で最初の札幌の方には行けないので、稚内の近くの猿払というところで行われる遺骨発掘と、参加者同士・地元の方たちとの交流の現場に直接お邪魔する予定だ。 ぼくは元来、こういう共同生活をするような場がすごく苦手なのだが、数年前に始めて参加してから、夏冬と年二回行われるこの催しには、かなり頻繁に参加してきた。 それは結局、その場に縁とか魅力があるということなのだろう。それに今年の場合、大阪は暑すぎる。オホーツク海近くの気候も、正直大きな魅力である。 ところでかんがえてみると、ぼくは、このワークショップに関連した人間関係というのは少なからずあるが、それ以外の人間関係、とくに友人関係といったものは、「絶無」という言葉に近いほど薄い。 5年以上続いている友人関係は、この関係以外ではまったくないはずだ。そして、あまり詳しく書

    人間関係について - Arisanのノート
  • 物乞いの聖人 - Arisanのノート

    よく耳にする話だが、野宿をしている人で、とくに年配の人のなかには、生活保護を受けることを頑なに拒む人が少なくないらしい。 これはたとえば、「生活保護がスティグマになっているから」だろうか?たしかに、その可能性もある。だとすると、「生きていく」ことがなんらかの心理的な負債を負うことで達成されないというような社会は、やはりおかしいと思うから、いま「ベーシック・インカム」(だっけ)ということが議論されているように、生を可能にする最低限のレベルというのは、無条件で全員に付与される制度にするべきだろう。 その限定のうえで、競争を好きなだけやればいい、と思う。「自由競争を制限してはいけない」といっても、もともと今の市場経済というのが国家や軍隊の強大な力によって保証されているようなものだから、ある意味では全然「自由」ではないのだ。「自由」を成立させるための枠組みを変えればいいというだけの話である。 ただ

    物乞いの聖人 - Arisanのノート
    gnarly
    gnarly 2006/07/30
    ハリー、ハリー、バクシーシ
  • スライド上映会『70年代の釜ヶ崎』 - Arisanのノート

    16日日曜日、大阪市西成区でおこなわれた、1970年代の大阪釜ヶ崎の日雇い労働者の人たちの様子を映したスライドの上映と、お話を聞く会に行ってきました。 スライドは、当時日雇い労働者として働きながら写真を撮っていた小杉邦夫という人の撮ったもので、お話は、この地域でこどもや労働者の問題とずっと関わってきておられる釜ヶ崎キリスト教協友会の小柳伸顕さんに聞かせていただきました。 このスライド作品は、「釜ヶ崎 1976冬」という題がついていて、この年のいわゆる「越冬闘争」の記録を中心にしているそうです。当時の様子を生々しく伝える貴重な写真ばかりで、それらを見ながら、当時を知る小柳さんのお話をうかがうことで、たいへん多くのことを感じ、考えることができました。 以下、とくにぼくが強く印象に残ったところを中心に、お話の内容を紹介します。 なお、不明な点などがあったので、お話しを聞いた後に、釜ヶ崎などの事情

    スライド上映会『70年代の釜ヶ崎』 - Arisanのノート