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ブックマーク / call-of-history.com (106)

  • 「アジアのなかの戦国大名: 西国の群雄と経営戦略」鹿毛 敏夫 著

    戦国時代を戦国大名の分立的状況から天下統一へと至る過程として捉える一国史的立場に対して、東アジアの中に日の戦国時代を位置づける見方も、近年非常によく見られるようになってきている。書では、天下統一という志向とは一線を画した、大内、大友、松浦、島津、相良など西国大名のアジア志向について、彼らの交易と人々の流れの中で描こうとした一冊である。 室町時代に行われた日明貿易、合計十九回の遣明船が送られたが明応の政変(1493)以後幕府権力が弱体してからは、細川氏と大内氏の主導権争いを経て遣明船は大内氏が独占、大内氏の滅亡以後日明貿易は絶えた、ということになっているが、書ではこれを「狭義の遣明船」とし、十六世紀以降、細川・大内氏だけでなく有力西国大名が次々と遣明船を送っていることを明らかにする。 各大名、とりあえず遣明船を送り、現地で明政府から朝貢貿易・公貿易として認められれば良し、そうでなければ

    「アジアのなかの戦国大名: 西国の群雄と経営戦略」鹿毛 敏夫 著
  • 「天下統一とシルバーラッシュ: 銀と戦国の流通革命」本多 博之 著

    十六世紀初頭の石見銀山の発見と開発は日列島だけでなく東アジア全体に大きな影響を及ぼした。その石見銀山の発見を契機として広がった「シルバーラッシュ」が戦国時代の日を、そして東アジアをどのように変貌させたか、銀の流通をたどることで全体像を明らかにしようとする一冊である。 石見銀山で採掘された銀は博多商人によって列島へ、大内氏の遣明船によって東アジアへと持ち込まれ、1550年代、後期倭寇の活動を活発化させ、1560年代以降、福建商人、ポルトガル商人の来航を促進、列島内でもヒト・モノの広域的な流れを生み出した。まず西国大名によって交易を通じて日産の銀が東アジアに広がったことで国際通貨として確立、遅れて国内でも貨幣として流通していったという流れであるらしい。 戦国時代という、中央政府の弱体化による権力の分散と旧来の荘園制市場構造の解体した状態の中で大名、国人、商人、海賊の共生関係を通じた経済活

    「天下統一とシルバーラッシュ: 銀と戦国の流通革命」本多 博之 著
  • 「トップ記事は、月に人類発見!―十九世紀、アメリカ新聞戦争」

    一八三三年九月二日深夜、二十三歳の若き印刷工の青年ベンジャミン・デイは自宅兼印刷所の作業所で一生懸命新聞を刷っていた。といっても、全くオリジナルの新聞だ。 様々な新聞からかき集めて面白おかしくリライトした事件記事、嘘の企業広告、でっちあげの作り話・・・当時の新聞は上流階級向けのお硬いものしかなく、縦九十センチ×横六十センチの大きさで、価格も六セントと高額なため労働階級は手が出せない。そこで、労働階級向けに娯楽と事件と性に特化したコンパクトで低価格な新聞を出せば、大儲け出来るはずだと考え、それを実行に移したのだった。若くして結婚したは二人目を妊娠し、印刷工の仕事は実入りも少なく生活は苦しい・・・その目論見は大当たりだった。瞬く間に、彼の出した新聞「ザ・サン」はニューヨーク一の発行部数を誇るタブロイド紙の草分けとして知られるようになる。 ところで、現在の英国大衆紙「ザ・サン」は1964年に創

    「トップ記事は、月に人類発見!―十九世紀、アメリカ新聞戦争」
  • 「オカルトの帝国―1970年代の日本を読む」一柳 廣孝 編著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    映画、TV、小説、アニメ、マンガ、ゲームなどのサブカルチャーから宗教・思想さらには日常生活の隅々までオカルトは薄く広く拡散している。日におけるオカルトの広がりのルーツを辿ると1970年代に行き着く。では、現代日という「オカルトの帝国」の原風景といえる1970年代のオカルトの大流行はどのようなものであったのだろうか。「閉ざされた知であるオカルトが白日の下にさらされた1970年代」を描く論文集である。 ただし、絶版。ひと通りネット書店を見て回っても購入することは出来ないようなので、興味がある方は図書館か古書店で。 目次 第一部 オカルトの日 第一章 オカルト・ジャパン・シンドローム――裏から見た高度成長 第二章 小松左京『日沈没』の意味 第三章 ディスカバージャパンと横溝正史ブーム 第二部 メディアのなかのオカルト 第四章 エクソシスト・ショック――三十年目の真実 第五章 「ノストラダ

    「オカルトの帝国―1970年代の日本を読む」一柳 廣孝 編著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 「セルデンの中国地図 消えた古地図400年の謎を解く」

    十七世紀前半の英国を代表する法律家・東洋史家ジョン・セルデンの遺産の一つに、奇妙な中国地図がある。ボドリアン図書館に寄贈されたその地図は、縦160センチ、横96.5センチと規格外の大きさなだけでなく、従来の中国地図であれば陸地を中心に描くところ、その地図の中心は南シナ海であり、また美麗な風景画の趣きがあり、中国だけでなく日列島、東南アジアから周辺の諸島まで細かく描かれ、また非常に正確な航路が記されている。およそ十六~十七世紀頃に中国を描いた地図らしくない。 ボドリアン図書館セルデン地図ページ(”Bodleian Library | Selden Map”)(リンク先英語) この謎の地図、誰が何のために描いたのか?国際法の父グロティウスと並ぶセルデンの事績から始まり、英国王ジェイムズ一世とオランダとの対立、アジアの海へと乗り出したイギリス東インド会社の商人たち、東アジアにネットワークを築い

    「セルデンの中国地図 消えた古地図400年の謎を解く」
  • 「『大日本帝国』崩壊 東アジアの1945年」加藤聖文 著

    昭和二十年(1945年)八月十五日正午、玉音放送が流れ大日帝国臣民は敗戦を知らされた。大日帝国の崩壊はただ日の敗北を意味するだけではない。大日帝国の崩壊によって大日帝国による植民地支配体制が崩れ、新しい国家、新しい国際秩序が東アジア地域に誕生することになった。その八月十五日前後の経過を通して大日帝国下の日、朝鮮、台湾、満州、樺太・千島、南洋諸島、東南アジア諸地域が迎えた敗戦と変化を概観した一冊。 まず序章としてポツダム宣言の公表に至る諸国の駆け引きが、第一章ではそれを受けての日政府の対応が描かれる。 ポツダム会議の議題はヨーロッパの戦後処理とともに唯一抗戦する日をどうするかであった。米国内では天皇の地位を保障して早期停戦に持ち込むべきとするグルー国務次官・スティムソン陸軍長官派と天皇の地位保障を盛り込むべきでないとするバーンズ国務長官・ハル前国務長官の無条件降伏派との対立

    「『大日本帝国』崩壊 東アジアの1945年」加藤聖文 著
  • 「英雄はいかに作られてきたか フランスの歴史から見る」アラン・コルバン著

    フランス史上の国民的英雄・偉人たちの多くが十九世紀、国民国家フランスの誕生とともに「つくられた」。偉人が誕生し、称揚され、そして国民的英雄として歴史に刻まれ、忘れ去られていく過程をアナール学派の代表格アラン・コルバンが子供に語る体で描いた英雄誕生のフランス社会史。 フランスにおける国民的偉人のモデルとして大きく以下の四つに分類される。 1)プルタルコス的軍人 2)キリスト教的聖人 3)啓蒙主義的偉人 4)ロマン主義的英雄 プルタルコスの対比列伝はルネサンス以降広く読まれ第一帝政時代にナポレオンとその将軍たちはプルタルコスが描く古代ローマの英雄たちと比較して語られるようになった。軍人としての勇敢さや戦場で死んだもののヒロイズムがその特徴だが、このようなタイプの英雄観は近代戦以降戦争の悲惨さが強調され兵士一人ひとりへと注目が移ったことで大きく後退したという。キリスト教的聖人の特徴は自己犠牲と献

    「英雄はいかに作られてきたか フランスの歴史から見る」アラン・コルバン著
  • 「臨時軍事費特別会計 帝国日本を破滅させた魔性の制度」鈴木 晟 著

    太平洋戦争へ至る過程で軍部の台頭を許した大日帝国の制度的欠陥の一つが「臨時軍事費特別会計」である。 臨時軍事費特別会計は大日帝国下で戦時に戦費支出目的で定められる特別会計制度で日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦・シベリア出兵、日中戦争(支那事変)・太平洋戦争の四度設けられた。それぞれの支出額は日清戦争:約二億円、日露戦争:約十五億円、第一次・シベリア:約八億八千万円、日中・太平洋戦争:約一五五三億九千万円。 その特徴は 「一般会計とは異なり、いずれも戦争の勃発から終結までを一会計年度とし不足分は追加予算で補われる」(P90)こと「戦争の終結までが一会計年度であるので、その間に陸海軍省は議会にたいして決算報告の義務がない」(P96)ことである。 臨時軍事費特別会計法(昭和十二年法律八十四号) 第一条 支那事変ニ関スル臨時軍事費ノ会計ハ一般ノ歳入歳出ト区分シ事件ノ終局迄ヲ一会計年度トシテ特

    「臨時軍事費特別会計 帝国日本を破滅させた魔性の制度」鈴木 晟 著
  • 「日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか」小谷 賢 著

    太平洋戦争における日は通信を傍受され、暗号を解読され、偽情報に撹乱され、連合軍の兵力を見誤り、情報分析を疎かにして慢心と理想論とで作戦を立てて失敗を繰り返し・・・と情報戦で完敗したが、書は戦前日の情報活動はどのようなものだったのか、どこに問題があったのかを概観した一冊である。 基的な用語がおさえてあるのでインテリジェンス入門書として有用だ。生情報やデータが「インフォメーション」、「インフォメーション」を分析・加工した情報が「インテリジェンス」で、「インテリジェンスの質は、無数のデータから有益な情報を抽出、加工することによって政策決定サイドに『政策を企画・立案及び遂行するための知識』を提供することにある」(P7)。国益・国家戦略に基づく情報要求「リクワイアメント」が政策・作戦サイドから情報収集・分析(インテリジェンス)サイドに出され、これに対してインテリジェンスサイドは多様な情報を

    「日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか」小谷 賢 著
  • 「江戸の発禁本 欲望と抑圧の近世」井上 泰至 著

    江戸幕府は幕府にとって都合の悪いを発禁として絶版にし、売買を禁止した。幕府による出版統制と検閲のシステムはいかにして確立され、発禁とされた出版物にはどのようなものがあり、幕府の規制の中で近世の出版はどのような影響を受け、いかに発展したか、欲望と抑圧のせめぎあいを生々しくも鮮やかに描いた面白いである。 幕府の出版統制令は軍記物の規制から始まった。江戸幕府が成立すると戦国時代を舞台にした様々な軍記物が出版されたが、現存する大名家の当主たちさらには徳川家を悪く書いたものも少なくなく、これらの規制が始められた。最も古い出版統制令は明暦三年(1657)三月、京都で出された触書で軍記物出版時の出版元報告を義務付けたものだったという。 八代将軍徳川吉宗の享保の改革で全国的な出版統制システムが確立する。風説・異説、好色、武家の祖先に関わるもの、徳川家に関わるものなどの出版が禁じられ、屋仲間が結

    「江戸の発禁本 欲望と抑圧の近世」井上 泰至 著
  • 「徳川慶喜 (人物叢書)」家近 良樹 著

    江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜の評伝である。近年の幕末史の様々な知見をふんだんに盛り込んで、複雑怪奇、敵味方がくるくると入れ替わる幕末諸勢力の情勢の中に一橋慶喜の行動を位置づけて、彼の事績を描いており、さすが家近氏といったところだ。それほど多くの評伝を読んだわけではないが、それでもこれまで読んだこのような人物伝の中でも屈指の面白さだった。2014年1月刊。 江戸幕府を終わらせ鳥羽伏見の戦いでは無様に敵前逃亡をして、以後表舞台に一切姿を表さなかったゆえ、彼には悪いイメージが強く残っている。一方で大政奉還に至るその政治過程では確かに他を圧倒する巧みな政治手腕を見せ、いち早くばっさりと髷を落として開明的な姿勢でも知られ、切れ者としての評価も高い。この評価が一定しないところが慶喜の慶喜たるゆえんとでも言おうか、その毀誉褒貶と彼の行動原理もまた、その足跡を丁寧に追うことで浮き彫りにされている。 とりあ

    「徳川慶喜 (人物叢書)」家近 良樹 著
  • 「明暦の大火(振袖火事)」と復興、江戸の都市改造 | Kousyoublog

    明暦三年一月十八日(西暦1657年3月2日)から十九日にかけ三次に渡り連続して発生して江戸の町を焼きつくした大規模火災は明暦の大火と呼ばれて「江戸の三大大火」の一つに数えられている。また、この大火災害からの復興の過程で江戸の町が整備され、後の百万都市「大江戸」の土台が整うことになった。 明暦の大火の発生当時の江戸は、約八十日間雨が降っておらず非常に乾燥して火災が起こりやすい状態にあり、また年初より小規模火災が頻発していた。さらに、前日十七日頃から北西の風が吹き、十八日未明から強風となって朝になってもなお砂塵で暗かったという。乾燥した気候と延焼しやすい強風という悪条件が重なっていたのである。 第一次:郷丸山町妙寺から出火一月十八日未の刻(午後二時頃)、郷丸山町(文京区)の寺院妙寺から出火、強風を受けて郷・湯島・駿河台へと延焼、湯島天神・神田明神・東願寺を焼いて神田川南岸(現在の万

    「明暦の大火(振袖火事)」と復興、江戸の都市改造 | Kousyoublog
  • 「江戸の文人サロン―知識人と芸術家たち」揖斐 高 著

    十八世紀のヨーロッパ、フランスでは貴族夫人が政治家・知識人・芸術家を招いて自身の邸宅を社交の場と化し、イギリスではコーヒーハウスに知識人・芸術家・文筆家・商人が集まって日々議論を戦わせた。同じ頃の日でも、江戸大坂京都の三都を始めとした各都市に文人と呼ばれる知識人たちが、詩文書画学問文雅を媒介に寄り合いの場を設けて交遊した。江戸時代に発展した「知識人が自由に離合集散して談笑・議論し、社交する場」(P3)としての文人サロンはどのようなものであったか、様々な興味深い例とともに、文化史の中に江戸時代の文人サロンを位置づけようと試みた一冊。 以前紹介した「『江戸の読書会 会読の思想史』前田 勉 著」とあわせて読むことをおすすめしたい。 文人とは何か、著者は以下の四つの特徴を挙げている。 (1)読書人であり、高度の知識人である。 (2)重大な政治権力の行使に直接的には関わらない。 (3)詩文書画など

    「江戸の文人サロン―知識人と芸術家たち」揖斐 高 著
  • 幕府代表とペリー艦隊の飲みニケーション全5回まとめ

    先日の記事「「居酒屋の誕生: 江戸の呑みだおれ文化」飯野 亮一 著」にいくつか、ペリー艦隊来航時の日人代表も泥酔していたことを思い出した、といった趣旨のコメントがついていて、そうそうあの酔っぱらいエピソードも面白いんだよね、ということで幕府代表団とペリー艦隊との飲みニケーションエピソードを「ペリー艦隊日遠征記(上)(下)」から紹介しよう。酒を飲むことでのコミュニケーションが相互理解と親睦、異文化交流に大いに役立ち、日米和親条約締結に大きな影響を及ぼしたのだ。両者の酒宴はあわせて五回あった。 1853年7月12日1853年7月8日、ペリー艦隊は浦賀沖に姿をあらわし、米フィルモア大統領から将軍に宛てた親書の受け取りを求めた。これに対し日側は、かねてから黒船来航の情報を元に準備していた通り浦賀での受け取りを拒否、長崎への移動を求めるが、ペリーはこれを拒否して、現在地浦賀での授受を求めた。そ

    幕府代表とペリー艦隊の飲みニケーション全5回まとめ
  • 「幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで」橋本 一夫 著

    昭和十五年(1940)の国際オリンピック大会は様々な政治的思惑が絡んで東京に決定したが、開催直前になって返上を余儀なくされた。招致活動の開始から返上に至る過程を丁寧に描いた一冊。 1940年オリンピック返上の理由として「日中戦争の影響」と一言で片付けられることが多いが、書を読むと、むしろ、日側の準備不足と責任能力の欠如こそが大きな要因であったことがわかる。そのドタバタっぷりは、某アニメの台詞ではないが「なんですか、これ」って言いたくなるレベルだ。 オリンピックには普遍主義と国家主義という二つの顔がある。人種・民族・国家を越えて選手一人一人が参加することに象徴される平等と差別排除の追求、主体となる選手の身体性と結びついて増幅される国家の威信と同胞意識。オリンピックの登場以来、この二つは常に表裏一体であった。1940年の東京オリンピックへ至る過程もこの双面から自由ではない。 そもそもの始ま

    「幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで」橋本 一夫 著
  • 「ローマ五賢帝 『輝ける世紀』の虚像と実像 」南川 高志 著

    帝政ローマの最盛期を現出したのがネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの五人の皇帝、通称「五賢帝」である、とされる。トラヤヌス帝の時代に最大版図を実現し、政治的にも経済的にも安定して、何かと理想化されるこの時代――紀元九六年から一八〇年までの約一世紀――を統治した五人の皇帝について、近年の研究動向と様々な史料を元にその光と陰を読み解いた非常に面白い一冊。 五賢帝時代に関する一般的な理解は、書によれば「徳望ある理想的な君主が元老院と協調して政治を行い、また元老院の優秀な人材を養子にして帝位を継がせるシステム(養子皇帝制)が機能して帝位をめぐる内乱が生ずることもなく、国の内外が安定した平和な時代」(P229)とされるが、書で明らかにされるのは五賢帝時代の実態はその説明と相容れないということだ。「『養子皇帝制』なるものは、実際には見出し

    「ローマ五賢帝 『輝ける世紀』の虚像と実像 」南川 高志 著
  • 江戸の庶民の味「天麩羅(てんぷら)」誕生の歴史 | Kousyoublog

    江戸を代表する料理として挙げられるのが「てんぷら」である。「てんぷら」がいつどのように誕生したのか、必ずしも定かではないが、「東京天ぷら料理会 東天会 天ぷらの起源と語源」によれば、「『料理道記』(1669)の「てんふら 小鳥たたきて鎌倉、えび、くるみ、くずたまり」が初出とされ」、「衣揚げの記述は「どじょうくだのごとくきり、くずのこたまこを入、くるみ・あふらにてあげる『料理献立集』(1671)」が最初」だという。一方、原田信男編「江戸の文化」では「寛延元年(1748)の『料理歌仙の組糸』に、「てんふらは何魚にても饂飩の粉まぶして油にて揚げる也」とあるのが天ぷらの文献上の初出」(P132)とされる。前者は言葉だけ、後者はてんぷらそのものを表しているという違いであろうか。 明暦の大火(1657)後の復興過程で、江戸の町には様々な屋台が登場した。特に防災都市化する過程で各地に設けられた火除地

  • 「ヴァイキングの経済学―略奪・贈与・交易」熊野聰 著

    ヴァイキングという言葉から連想される一般的なイメージは、欧州沿岸を容赦なく略奪してまわる北方の荒ぶる海賊たちだろう。角の生えた冑(かぶと)をかぶりロングシップ上で戦斧を振り回す赤ら顔の巨漢たち、おそらくは北方の社会からもあぶれた、ならず者の集まりか・・・というのは通俗的なイメージで、実際には彼らはその大多数が普段は広大な農園を持つ領主層とその従士たちであり、略奪だけではなく交易にも積極的で、夏の一時期だけ略奪と交易を行う遠征に出て、それ以外は農地を耕し、土地の支配者として振る舞う人々であった。 ヴァイキングはスカンディナヴィアの貴族・豪族による組織的な活動であって、無法者たちの好き勝手な暴虐ではない。書は、そんなヴァイキングの略奪と交易、その行為を支えるヴァイキング社会の慣習と名誉、贈与の習慣を紹介した一冊である。 ヴァイキングとは何か、九世紀初頭から十一世紀半ばにかけての二世紀半、バル

    「ヴァイキングの経済学―略奪・贈与・交易」熊野聰 著
  • 十九世紀オーストラリアの中国人排斥運動と白豪主義国家の誕生

    オーストラリアで1850年代から始まった中国人移民排斥運動は、白豪主義として知られる白人至上主義的潮流を生み出し、1901年のオーストラリア連邦成立以降1970年代まで国家として非白人を排除する人種主義政策を続けることになった。 十九世紀半ばのオーストラリアで起きた中国人移民排斥の原因を、白人社会と中国人との文化的差異に求める見方は適切ではない。まずは当時のオーストラリアの社会構造がはらんでいた矛盾と急激に表面化した経済的要因があり、彼らが直面した問題を説明しうる理由として「中国人の脅威」を見出すようになったのである。 オーストラリアの植民地化オーストラリアの歴史は古くて新しい。先住民アボリジナル(アボリジニ)の祖先はおそらく四万年前にはオーストラリア南部に到達していたと考えられ、以後、西暦1700年代まで外部の侵入もなく独自のアボリジナル社会を形成していた。 1770年ジェイムズ・クック

    十九世紀オーストラリアの中国人排斥運動と白豪主義国家の誕生
  • 「砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)」川北 稔 著

    1996年の発売以来売れ続けている世界史入門定番の一冊。砂糖の広がりを通じて様々な地域がつながりあい、ダイナミックに変化していくさまが平易なことばとわかりやすい解説で描かれており、世界史の面白さがこれ以上ないほどに詰まっているので、まぁ、読んでいる人の方が圧倒的に多いでしょうが、あらためて紹介しておこうという記事。 書とあわせて記事下に列挙した書籍を参考にしつつ、大まかな砂糖を巡る歴史を概観しておこう。 歴史上、砂糖は西漸しつつ世界に広がった。砂糖の原料であるサトウキビはムスリム商人によってイスラーム世界の拡大とともに西へ西へと伝播し、十字軍によって地中海世界へ、スペイン・ポルトガルによって大西洋諸島さらに新大陸南米へ、イギリスによってカリブ海諸島へと広がりを見せる。この拡大の過程で砂糖は「世界商品」として人びとの生活に欠かせないものとなっていく。 サトウキビ栽培と製糖の特徴として、第一

    「砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)」川北 稔 著