パウル・クレーがバウハウスで教鞭を取るため、ドイツのワイマールにやってきたのは1921年1月の事だった。すでに前衛芸術家として名声を獲得していたパウル・クレーの肩書きは「マイスター(職人の親方)」であった。 バウハウスは、新しい概念によって作られた総合アートスクールで、学校の標語は「芸術と技術の新たな統合」というものだった。創設者ヴァルター・グロピウスの言葉を借りれば、「新しいマイスターを生み出していく」ことを目的としていた。 性格的には社会主義であるこの機関について、グロピウスは「芸術家と職人を隔てる傲慢な壁を取り去ることを目指す」とした。 「芸術家と職人という職業は、それぞれ全体の半分ずつを担っている。芸術家は理論的な科目を教え、職人は技術的なことを教える」という思想に基づき、バウハウスが創設された初期は、芸術家の身は職人に預けられた。 芸術家クレーにとって、バウハウスは非常に適した場