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哲に関するgraphのブックマーク (23)

  • 今週の本棚:小西聖子・評 『動物からの倫理学入門』=伊勢田哲治・著 - 毎日jp(毎日新聞)

    ◇小西聖子(たかこ)・評 (名古屋大学出版会・2940円) ◇「生き物を大事に」はルールといえるか 佐渡のトキは大切に保護されているが、世界では数え切れないほどの動物が毎日肉処理されている。私たちの生活は動物の大量殺戮(さつりく)の上に成り立っている。書によれば、鶏は日に3億羽近くいるそうだ。人間の数よりも多い。鶏が動けないくらいぎゅうぎゅうにケージに詰め込む飼い方もあるらしい。その方が面積当たりの卵の数は多いのだそうである。まるっきり工場製品みたいである。トキと鶏に対するこの価値判断の違いにどのように理屈がつけられるのだろうか。 肉だけでなく、動物実験や動物園での飼育、野生動物の保護の問題など動物に関する倫理にはホットな問題がたくさんある。人間の動物に対する行動や感情は複雑で矛盾が多い。ペットロスでうつ状態になりながら、おいしいハムを探すのに余念がなく、動物実験の成果である新薬

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    graph 2009/01/19
    伊勢田さん関係。ほしい。
  • evolutionaly sociology(伊勢田哲治「社会学理論の進化的視点からの拡充をめぐって」)

    社会学理論の進化的視点からの拡充をめぐって 伊勢田哲治(名古屋大学) 提題要旨 長谷川氏や内井氏の発表にも明らかなように、近年の動物行動学の発展は、 人間の社会について、進化論生物学の知見がこれまで考えられていた以上に 適用可能である可能性を示唆しはじめている。発表では、今後社会科学、 とりわけ社会学の理論や方法がこの動きによってどう変わって行きうるかを 考えてみたい。ただし、このような「可能性」を問題とする場合気をつけなく てはいけないのは、社会科学者たち自身の問題関心を無視して、「社会科学は こうあるべきだ」と勝手なプログラムをおしつけてしまわないようにすることで ある。 近年社会学の理論は非常な多様化を示しており、相互に両立不能な理論を同じ 社会学者が場面によって使いわけることもあるようである。この多様化を社会学 が科学として成熟できない理由として挙げる社会学者もいれば、社会学者の

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    graph 2008/11/27
    伊勢田哲治せんせ
  • 被害者の呪い - 内田樹の研究室

    毎日新聞に三ヶ月に一度「水脈」というコラムを書いている。 いささか旧聞に属するが、そこに聖火リレーのことを書いた。 昨日の夕刊に出たので、もうブログに採録してもよろしいであろう。 こんな話。 オリンピックの聖火リレーをめぐる騒動を眺めていて、いささか気になってきた。何か「厭な感じ」がしたからである。何が厭なのか、それについて少し考えたいと思う。 熱い鉄板に手が触れたときに、私たちは跳びすさる。「手が今熱いものに触れており、このまま放置すると火傷するので、すみやか接点から手を離すことが必要である」というふうに合理的な推論してから行動するわけではない。たいていの場合、私たちはわが身に何が起きたのかを行動の後に知る。 聖火リレーにまつわる「厭な感じ」はそれに似ている。 だから、この論件については、誰の言い分が正しく、誰の言い分が誤っているというような「合理的」なことは申し上げられない。それは「

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    graph 2008/05/13
    たたかれそうな内容ではあるけれど、まんま自分が意識していることでもある。
  • 現代将棋が表現する思想 - My Life Between Silicon Valley and Japan

    ふたつほど将棋の話が続いたが、ついたはてなブックマークの数もさることながら、ページビューが当に多かった。やっぱり将棋は、多くの日人の心にしっかりと根付いている、素晴らしい伝統文化であり芸術なのだと改めて思った。 mixiのある方の日記が、僕の前エントリーを紹介して、 思想か、芸術を鑑賞、分析するような内容の文章です。現代将棋が表現しているものは、思想であり、芸術ともいえるものと思うので、梅田氏の文章は共感して読みました。 と書かれていた。僕は現代思想とか言われている世界の話はまったくわからないので何も言えないが、ひとつだけ言えることは、「情報の世の中における意味」「情報が社会を変える」という観点で、将棋の世界の最前線で起きていることが、我々の社会全体でいずれ起きることを先取りして実験してくれている、ということだ。 トラックバックをいただいたid:essaの「奇襲戦法の背後には理論の緻密

    現代将棋が表現する思想 - My Life Between Silicon Valley and Japan
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    graph 2008/02/12
    「創造性以外のものは簡単に手に入る時代だとも言えるでしょう。」うわああ
  • 学問に潜む価値判断について - 赤の女王とお茶を

    疑似科学、批判、道徳。 や、 dojinさんへの応答 を読んで感じたんですが。 まず、 「科学は価値判断を含まない」 ということ、これは科学とは「地図」であるでも書いたように、基的には正しいと思います。科学は"How"を明らかにするけれど、"Why"には答えない、というのはつまり、道筋を明らかにはするけれど目的地を決めるわけではない、ということです。 生命や宇宙が「どのように」存在しているのか、存在してきたのかを探る方法ですが、「なぜ」そうでなくてはならないのか、という究極には答えない。 …とはいうものの、主観的な価値判断と科学・学問が無縁かといえばさにあらず。 専攻する分野によって、なんとなく価値観が似てくるというのは経験的にはよくあることですね。 それはやはり、科学といえども単なる分析方法だけではなく、一種の「世界観」、つまり価値判断を予め含んでいるからではないでしょうか。 それが「

    学問に潜む価値判断について - 赤の女王とお茶を
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    graph 2008/01/24
    「知のモラル」で長谷川真理子さんが「生物学分野では○○がこうだから△△すべきだ」論調に異議を唱えておられましたね。「水分子は水素と酸素でできているから△△だ」にならないように、って。
  • 未映子の純粋悲性批判: そやかて夢を、みるのやも。

    この数日間はいろんな取材を受けたり撮影したり〆切を飛び越えもろもろの毎日ではあったけれどなんだかそれとは関係なく半分が怒りとぐらつきで死んでるようで、死ぬといえば、ぬ、といえば、わたしは、ぬ、と打とうとすると必ず一回目は、む、と打ち損じ、例えばぬま、は、むま、になり、逆もまたしかり、むり、は、ぬり、と打ち損じ、そんな人生である。19日は坪内賞の授賞式で、大賞は村上春樹さんということもあり、式にはぎょうさんの人がいらっしゃる模様でパーティーなんて久しぶりなので、ということはお酒を飲むのも久しぶり、そしてもうすぐ久しぶりに一年が終わろうとしておるな。 作品について夜中飛び起きて怒りに震えることがある。何に対する怒りなのかを考えてみても怒りが渦巻いているのでその詳細はきちんと見えず。そしてそれを怒りと表現してみても、こういう場合は実は怒り以外の感情であることが意外に多いのだから、印象が連れてく

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    graph 2007/11/05
  • 宴会週末 - 内田樹の研究室

    日曜が仕事だったので、土曜日の受賞祝賀会は二次会で切り上げて、早めに帰る。 橘さんセレクションのワインとブランデーが2ケースにシャンペンクーラーがあったので、かんちきくんに手伝ってもらってタクシーで帰る。 その祝賀会でもっともつよく記憶に残っているのは、「セトッチとおいちゃんの足元しか見ないダンス」(パンク・ミュージックではこのポーズのことを Shoe gazer と呼ぶと以前に増田くんに教わったことがある)と「ほとんどカール・ウィルソンみたいなドクターのファルセットとお気楽ダンス」と「甲南麻雀連盟会歌三番を聴いているときのかんちきくんの上気した頬」である。 総じて「かわいい系」の情景が私の記憶には選択的に残されるようである。 会の詳細については、ウッキーや青山さんのブログ日記にも証言が記されているのでそれを参照されたい。 発起人のみなさまの氏名をここに記して、感謝の意を表したい。 江 “

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    graph 2007/10/24
    「真の知性は「存在しないもの」、私たちの意識から絶えず逃れ去ろうとするもの、知性が把持することのできないものを選択的に追う。」 はたして私はまだ何に気づいていないのだろうか?
  • 不思議の国の柔らかい機械 - 生きてみた感想

    [文学・映画][考察][思想]不思議の国の柔らかい機械 すこし前のことですが、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を読んだことがなかったということに思い至って、渋谷のブックファーストに立ち寄りました。文庫の一番安いやつを買おうと思って検索をしているうちに、ふと気が変わって英語で読むことにしました。それで検索にヒットした原書を探したのですがどこにおいてあるのかよくわからず、代わりに原文の上のところどころにルビが振ってある親切なやつを見つけたのでそれを買って読み始めたのでした。 この物語はどうも僕の性にあっているらしくてとても面白かったのですが、読みながら僕は、このにもし根思想というものがあるのだとすれば、それは「ヴィトゲンシュタインとヴィトゲンシュタインを足して割ったような感じだな」と思ったのでした。 ※ まともに読んだことがないながらも、『論理哲学論考』に代表されるいわゆる前期のヴ

    不思議の国の柔らかい機械 - 生きてみた感想
  • レヴィナス先生、こんにちは - 内田樹の研究室

    ゲラの山が二つに減ったので、レヴィナスの『困難な自由』の校正にとりかかる。 今年のはじめくらいに受けとったまま、次々やってくる急ぎのゲラに押しやられて、これまで日陰の身に甘んじていたのである。 すまない。 私ののゲラなんか、ほんとはどうだってよいのである。 レヴィナス老師の翻訳を一日でも早く出すことの方が出版史的には比較を絶して重要性が高い仕事なのであるが、なかなか世の中はそのような常識が通らないのである。 今回の『困難な自由』は1963年の初版を底としている。 これはもう入手が不可能であろうと思われていたのであるが、奇跡的に発掘されたのである。 そしてここには再版では削除されていた論文が七つ収録されている。 これは今回はじめて訳出される。 再版に際して削除した理由はよくわからない。 論文のいくつかはソ連型社会主義とそれに拍手を送っていたフランスの左翼知識人に対する批判である。 195

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    graph 2007/08/22
    「個人がどれほど隣人に無関心であっても、システムが貧者や弱者をきめこまかくケアしてくれるような体制があったとして、それを「道徳的な社会」と言うことができるであろうか。」
  • 因果関係は責任関係ではない - 赤の女王とお茶を

    当は、できるでしょう?」の原初的風景 ホームレスの人を助けるべきか ある行為がある現象の原因になっている、あるいはなっている可能性がある、なんてことはそれこそ無限に言える話。 ホームレスの人に8000円渡して病院に行かせたために医療ミスで逆に障害を負ってしまうかもしれないし、医師の手が塞がって他の重症患者が手遅れになってしまうかもしれない。その8000円をアフガンに送ればもっと多くの人命が救えたかもしれないし、逆に武器になって人を殺すかもしれません。お腹の子を産めば不幸になるかもしれないし、誰かを不幸にするかもしれない。そうやって考えている内に手を動かせば誰かの命が救えたかもしれないし、救えないかもしれない。 そういうあらゆる因果を「責任」として捉える立場があっても別に構いませんが、その場合「責任」という概念自体が無意味になってしまうでしょう。 「責任」というのは自然における因果を示す

    因果関係は責任関係ではない - 赤の女王とお茶を
  • 悲観主義とオプティミズム - My Life Between Silicon Valley and Japan

    一週間東京に行って帰国したところ。これからしばらく寝たり起きたりで、消耗しきった身体に体力が戻るのを待とう。今年二回目の東京だったが、こちらに戻ってくるとすべてのモードが全く変わって、ブログを書く力もようやく沸いてくる。 ある日、東京で気のおけない親しい友人たちとオプティミズムの話になった。「ウェブ進化論」のオプティミズムを誤解する人が多いね、という話がよく出るが、その日もそんな話になった。オプティミズムとは、生来人間は素晴らしいものなんだから「世の中、ほっておいても何とかなるさ」みたいな呑気でいい加減な考え方とは全く違うものだ。オプティミズムの質を全く理解せぬまま、オプティミズムはけしからんと言う人が多いね、というのは僕もよく思う。 ところで別の友人との集まりで、話がなぜかそちらのほうに流れ、アランの「定義集」の話になった。僕が敬愛してやまない森有正(ぼろぼろになるまで読んだ四冊の)

    悲観主義とオプティミズム - My Life Between Silicon Valley and Japan
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    graph 2007/03/02
    オプティミズムだよな、やっぱり。うん。
  • Amazon.co.jp: 定義集: アラン (著), 森有正 (翻訳), 所雄章 (編集): 本

    Amazon.co.jp: 定義集: アラン (著), 森有正 (翻訳), 所雄章 (編集): 本
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    graph 2007/03/02
  • 今日もハイテンション - 内田樹の研究室

    中央公論のI上くんから「リマインダーメール」が来る。 2月15日締め切りの5200字「日の古典20冊書評」という仕事を去年の暮れに引き受けたのを忘れていたのである。 12月には2月15日なんて永遠に訪れることのない遠い未来だと思ったのだが、無情にもちゃんとその日は来るのである。 14日に日経締め切り(まだ書いてない)。16日には新潮社の初校の締め切り(まだやってない)、大学ランキング締め切り(まだ書いてない)がある。 今日が7日。あと一週間でこの山のような仕事を片付けなければならない。 その間に会議があり、パーティがあり、東京での日帰り仕事が一つあり、税理士との税務対策があり・・・ 年明け以来、講演も対談も原稿も新規の仕事はすべて断っている。 スケジュール表に一つでも多く「空白」の日を確保しなければ、命が持たないからである。 午後から博士論文の公開審査があるので、超特急で日経の原稿と大学

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    graph 2007/02/08
    論文を「書くことによって、その人自身の知的な枠組みそのものが一度解体され、再構築されるという力動的・生成的なプロセスがたしかにそこに感知される、ということである。」
  • 知ることの意味は何? - 記憶の彼方へ

    昨日講義を終えて研究室に戻り講義記録を書いていたら、ひとりの学生が訪ねてきた。相談があるという。一言では言えないその膨大な内容をその学生は言葉を選び選び慎重に慎重に言葉にした。「知ることにどんな意味があるのでしょうか」、「知らないほうが幸せではないのでしょうか」。「おー、来た、来た」と思って、私は嬉しかった。 問うことは難しい。上手に問うことができるようになれば、答えを手に入れたも同然である。抽象的な問いかけは少しずつ少しずつ具体的な問いかけに翻訳していくのがいい。そうすれば自ずと自分が当に問いたいことが見えて来る。 学生と対話しながら、私はかつての私、もう完全に赤の他人のような若い頃の自分を思い出していた。 大学1年のときだった。私は「科学史」の講義をとっていた。教えていたのは岡不二太郎先生で、数学者の岡潔の弟さんだった。私は高校時代受験勉強の合間に岡潔の随筆をよく読んでいて、数学者に

    知ることの意味は何? - 記憶の彼方へ
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    graph 2006/11/13
    なんかいいなと思った。人間は今まで「知り続けて」ここまで来たのだから自分が放棄する訳にはいかないのだとも思った。
  • 「で、みちアキはどうするの?」 - 「倫理的に正しいことは本当に正しいのか」

    ……というような検索wordsがアクセスログに残っていました。それでこの日記をリストアップするとはGoogle様もシャレがキツいよな。まぁせっかくですので、ちょっとお答えしてみたいと思います。 まず、「正しさ」という概念ですが、これは、世界をちいさな「箱」に区切らないと出てこないもの、なんですね。だいたいの人においては、箱のおおきさは、空間的には身の回りや近所〜自分の国ぐらい、時間的には自分の生まれたころ〜死んだすこしあと、ぐらいになっていると思います。風が吹けば桶屋が儲かる、ではないですが、なにかコトが起きたときの影響の連鎖は、追っていけばいつまでもキリがないんです。だから、ある程度のところで区切るしかない。そうすることでやっと、(「箱」のなか限定の)「正しさ」が見えてくる。なにが正しいのか判断ができるようになる。しかし、「箱」の中では直線に見えたものも、箱から飛び出した先をずっと追って

    「で、みちアキはどうするの?」 - 「倫理的に正しいことは本当に正しいのか」
  • Amazon.co.jp: アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫 ト 6-1): ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ (著), 宇野邦一 (翻訳): 本

    Amazon.co.jp: アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫 ト 6-1): ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ (著), 宇野邦一 (翻訳): 本
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    graph 2006/10/10
  • http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20060828

  • 正義を行う正義 - takoponsの意味

    正義の名のもとに行われる集団圧力は、不正義なものになりがち。 それは、なぜだろう? 正しいことが正義、善。 間違っている相手が悪。 多勢(みんな)の中に居る安心感。 正義に関与している自分が好き。 みんなで悪をやっつけようぜ! 【善と悪】 善と悪について 善とは、相手を生かすこと、相手を認めること。 悪とは、相手を殺すこと、相手を否定すること。 正義の名のもとに行われる集団圧力によって、相手は抹殺される。 相手を全否定する行為は、悪である。 ここで、正義が悪に変わる。 正義は相対的なものだということが分からないから、正義は暴走し、悪に変わる。 正義は、簡単に悪に変化する怖いもの。 私はこういう人たちの根拠希薄な正義とか、一つうえのコメントと全く同じ内容の文章を恥ずかしげもなく堂々と書ける神経や、批判対象の質を自分の目でみなくてだれかのフィルターを通して見たものを信じてしまう単純さや、自分

    正義を行う正義 - takoponsの意味
  • 未映子の純粋悲性批判: 子猫を殺し続ければよろしい

    作家の坂東眞砂子さんという人が日常的に子を殺しているのだそうだ。 なぜ殺してはいけないかという「なぜころ問題」についてちょっとでも考えたことがあれば、殺してはいけないという絶対的な理由なんかはこの世界のどこにもなく、あらゆる命は等しく無価値(by新井英樹「ザ・ワールド・イズ・マイン」)であり、そのとき折々の関係性で成立するもんであって、つまりオール時価なわけだ。坂東さんのように生まれたしりから子を崖にぽいぽいと放り投げることが出来る人はそれが出来るのだから出来る人なんであって、そのことについて「がかわいそうニャ」とか「呪われろ!」とかを云っても書いても、気持ちはわかるが仕方ないんであって、坂東さんの住んでる地域では法律違反でもなさそうだし、どうにもならんな。 坂東さんは人間側から想像する<の生>を<生殖がすべてである>と解釈して代弁しつつ、尊重する手段として避妊手術を否定し「能の

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    graph 2006/08/24
    確信犯とか愉快犯に対しては肯定も否定もロジックで説明しちゃいかんのかもしれん、と思っていたのがストンと落ちた気がする。黙して頑として与しないこと、だよなあ。シャイネスの欠落は批判側にも存在しうるかと。
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