gurenekoのブックマーク (319)

  • ひとこと - てぃーえすのメモ帳

    曹操は袁紹、孫権、劉備らに住民を奪われないようにと強制移住させることが多いようなのだが、これは敵方に人を奪わせないという効果はあったにしろ(孫権の時には逆に孫権側に逃げだされたとされるが)、いわば無人の地域を広げたことになるのだろうから、攻めるのもかなり難しくした事にもなるのだろう。 いわゆる「三国時代」になるのを後押ししたような面もあったんじゃあないだろうか、などと思ったり。 ちゃんと分析したというほどの話ではないので悪しからず。もしかしたらそうかもね、ってとこ。

    ひとこと - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2022/02/26
    魏にとっての辺境の民の魏の中央への強制移住は、曹丕が政策として一気にやったものが有名ですが、そもそも曹操が戦争のたびに個別にやっていたことの追認・総仕上げという側面が強かったのかも?
  • 約束の地 - てぃーえすのメモ帳

    初、天子之立非(袁)紹意、及在河東、紹遣潁川郭圖使焉。圖還説紹迎天子都鄴、紹不從。會太祖迎天子都許、收河南地、關中皆附。 (『三国志』巻六、袁紹伝) 曹操は天子を迎えて許に行き、河南地を納めた。 この「河南地」はまあ黄河の南側、河南郡やその近辺の事なのだろう。 及石勒殺劉曜、(張)駿因長安亂、復收河南地、至于狄道、置武衛・石門・候和・漒川・甘松五屯護軍、與勒分境。 (『晋書』巻八十六、張駿伝) ではこの「河南地」はどうだろう?前涼の張駿は河南郡のあたりまで進出していたのか? 元朔元年春、衛夫人有男、立為皇后。其秋、(衛)青復將三萬騎出雁門、李息出代郡。青斬首虜數千。明年、青復出雲中、西至高闕、遂至於隴西、捕首虜數千、畜百餘萬、走白羊・樓煩王。遂取河南地為朔方郡。 【注】 師古曰、當北地郡之北、黄河之南也。 (『漢書』巻五十五、衛青伝) 後者はこちらの「河南地」だろう。北地郡以北の黄河の南側

    約束の地 - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2020/10/07
    こういう洒落のある題名、好きさ~。
  • 魏王についての疑問 - てぃーえすのメモ帳

    曹操は魏公から魏王になったが、何故魏王になったのだろうか? 魏公の時と領土は変わってないようだし、既に魏公が他の諸侯王より上の地位であると決められている。 じゃあ将来行うであろう禅譲のためかというと、その先達王莽はそもそも王にはなっていない。少なくとも、王になる事は禅譲革命の必須事項ではない。 それに対し、高祖劉邦が「劉氏にあらずして王となる者は皆で滅ぼせ」と後世に命じたとされているので、劉氏ではない身で公から王になるというのは、これに真正面から抵触するということでもある*1。 なぜ、敢えてそれを行ったのだろうか? *1:劉氏ではない王はそれまでにも存在はしたが、高祖が認めた者と、滅ぼされた者と、公に格下げされた者のみである。

    魏王についての疑問 - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2020/08/07
    『三国志7』でも苦労して「公」になった者がさらに「王」になるのは基本的に悪手。他の勢力が苦労せずに「王」を名乗り始めるから。 不利益以上の利益があるなら知りたい。 史実でもゲームでも。
  • 九尺様 - てぃーえすのメモ帳

    生而首上圩頂、故因名曰丘云。 【注】 索隱、圩音烏。頂音鼎。圩頂言頂上窳也、故孔子頂如反宇。反宇者、若屋宇之反、中低而四傍高也。 (『史記』巻四十七、孔子世家) 孔子長九尺有六寸、人皆謂之「長人」而異之。 (『史記』巻四十七、孔子世家) 孔子こと孔丘先生は、前回の記事にあったように身長210センチ以上で、しかも「四隅が高く中央がへこんでいる」という頭頂部の持ち主だった(そこから「丘」という名になったとか)という。 なかなか珍しい身体的特徴があったという事になる。 孔子既沒、弟子思慕、 有若状似孔子、弟子相與共立為師、師之如夫子時也。 (『史記』巻六十七、孔子弟子列伝) 將適陳、過匡、顔刻為僕、以其策指之曰「昔吾入此、由彼缺也。」匡人聞之、以為魯之陽虎。陽虎嘗暴匡人、匡人於是遂止孔子。孔子状類陽虎、拘焉五日、顔淵後、子曰「吾以汝為死矣。」顔淵曰「子在,回何敢死!」 (『史記』巻四十七、孔子世

    九尺様 - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2020/06/20
    現代でも孔子陽虎同一人物説って小説なら十分通用しそうな気がしてきた。
  • 毌丘倹(かんきゅうけん)?毋丘倹(ぶきゅうけん)? - 雲子春秋

    現在、九州国立博物館で行われている「三国志展」 sangokushi2019.exhibit.jp その展示に「毋丘倹紀功碑」というものがあり、その解説に「魏の将軍の名は毌丘倹(かんきゅうけん)とされてきたが、近年の研究では毋丘倹(ぶきゅうけん)とされる。」とある。 図録によると、その研究とは田中俊明氏の「魏の東方計略をめぐる問題点」(『古代武器研究』九 古代武器研究会、2008)だそうだ。 辺境に島流しされている私は、残念ながらその論文を参照できる環境にないため、私なりにアプローチをしてみた。 結論から言うと、私も近年の研究同様、毋丘倹(ぶきゅうけん)とすべきかもしれないと思うため、記事ではそう呼称することにする。 この画像は中国古代の印を集めた荘新興編「古鉨印精品集成」(上海古籍出版社、1998)に掲載されている。 毋丘倹ではないが、同じ姓の毋丘調という人の印である。 史書に記載はな

    毌丘倹(かんきゅうけん)?毋丘倹(ぶきゅうけん)? - 雲子春秋
    gureneko
    gureneko 2019/12/31
    この論争については、どこでどういう論法で戦いが繰り広げられているのかすら知らなかったので、大変勉強になりました。
  • 若き献帝の悩み - てぃーえすのメモ帳

    後將軍楊定請侍中尹忠為長史、詔曰「侍中近侍、就非其宜、必為關東所笑。前在長安、李傕專政。今朕秉萬機、豈可復亂官爵邪」 時上年十五、毎事出於胸懷、皆此類也。 (『後漢紀』孝献皇帝紀第二十八、興平二年八月) 後漢献帝が長安を出て新豊に居た頃、同行していた(護送していた)後将軍楊定が皇帝の侍中を自分の長史にしてほしいと願うと、「侍中は皇帝の近侍であるから、変な人事をしては関東の連中に笑われてしまう。長安に居た時は政治を牛耳っていた李傕がそういった人事もしていたかもしれないが、朕が万機を統べる今では、もう官位や爵位を乱すような事はせんぞ」という詔を発したのだそうだ。 どうやら、この15歳の献帝は「自分が政治を取り仕切る」という、来皇帝がするべき仕事に対する意識がとても高かったらしい。 自帝都許、守位而已、宿衛兵侍、莫非曹氏黨舊姻戚。議郎趙彦嘗為帝陳言時策、曹操惡而殺之。其餘内外多見誅戮。 操後以

    若き献帝の悩み - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2019/12/31
    自分の側近を楊定軍の公文書関連の最高責任者に据えれば、楊定軍を乗っ取れたかもしれないのに・・・。そのようにしなかった原因は、献帝の不明か。または董承あたりに脅されてこう言わされてしまったのか。
  • 『後漢書』孝霊帝紀を読んでみよう:その16 - てぃーえすのメモ帳

    その15(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/04/05/000100)の続き。 三年春正月癸酉、大赦天下。 二月、公府駐駕廡自壞。 三月、梁王元薨。 夏四月、江夏蠻叛。 六月、詔公卿舉能通古文尚書・毛詩・左氏・穀梁春秋各一人、悉除議郎。 秋、表是地震、涌水出。 八月、令繫囚罪未決、入縑贖、各有差。 冬閏月、有星孛于狼・弧。 鮮卑寇幽・并二州。 十二月己巳、立貴人何氏為皇后。 是歳、作罼圭・靈昆苑。 (『後漢書』紀第八、孝霊帝紀) 光和3年。 古文尚書や詩経、左伝、穀梁春秋に通じた者を議郎にした、という。 魏書曰、太祖從妹夫㶏彊侯宋奇被誅、從坐免官。後以能明古學、復徴拜議郎。 (『三国志』巻一、武帝紀注引『魏書』) もしかして、曹操がなった議郎もこれの事か? 靈思何皇后諱某、南陽宛人。家屠者、以選入掖庭。長七尺一寸。 生皇子辯、養於史道人家、號曰史

    『後漢書』孝霊帝紀を読んでみよう:その16 - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2019/06/26
    昔自力で読んだ時はあんまり面白くなかった霊帝紀ですが、「三国志の内容とコラボさせると、こんなに面白かったのか!」と思わされました。
  • 『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その69 - てぃーえすのメモ帳

    その68(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/02/02/000300)の続き。 春二月、熒惑守心星。占曰、王者惡之。 立皇子建為燕王。 上撃黥布時、為流矢所中、疾甚。呂后迎良醫。良醫曰、可治。上怒曰、吾以布衣提三尺取天下。此非天命乎。命乃在天、雖扁鵲何益。遂不使治。呂后問曰、陛下即百歳之後、蕭相國終、孰可代者。上曰、曹參可。又問其次。曰、王陵可、然少戇、陳平可以佐之。平智有餘、然難獨任。周勃厚重少文、然安劉氏者必勃也、可為太尉。又問其次。上曰、過此以後非乃所知。 先是上嘗疾困、惡見人、詔戸者無納群臣、群臣莫敢入。十餘日、樊噲乃排闥直入、大臣隨之。上獨枕一宦者臥。噲等見上流涕曰、陛下疾甚、大臣震恐、久不見臣等計事。顧獨枕一宦者。嗟乎、陛下獨不見趙高之事乎。上笑而起。 初、上欲廢太子。呂后聞之、使留侯為太子計。留侯曰、上有所不能致者四人。曰東園公、夏黄

    『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その69 - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2019/02/03
    「呂后問曰、陛下即百歳之後」について。この時代は皇帝の寿命が百歳というのが建前だったのかな~? やがて万歳までインフレしたのかな~? それとも呂后だからこその特権なのかな~? 誰か教えて。
  • 『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その64 - てぃーえすのメモ帳

    その63(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/01/22/000100)の続き。 五月、遣楚人陸賈使南越、立尉佗為王。 佗者、秦時為南海郡尉。因天下之亂、遂有南越。 賈至、尉佗椎髻箕踞見賈。賈曰、足下中國之人、親戚昆季墳墓在真定。今足下反天性、棄冠帯、欲以區區之越、與天子抗行為敵國、禍且及身矣。天子聞君王南越、不助天下誅暴秦、將欲移兵於王。天子為百姓勤勞、遣臣授君王印綬、剖符通使。王且郊迎北面稱臣、乃欲以新造未集之越、屈彊於此。漢誠聞之、掘燒王先人墳墓、夷滅宗族、遣一偏將、將十萬師以臨越。越人即殺王降漢、如反手耳。於是尉佗乃蹶然起坐而謝曰、吾居蠻夷中久、殊失禮儀。因問賈曰、我孰與蕭何曹參賢。賈曰、王則賢矣。復問我孰與皇帝賢。賈曰、皇帝起豐・沛、討暴秦、誅彊楚、為天下興利除害、繼五帝三王之業、統治中國、政由一家。自天地剖判已來、未曾有也。今王衆不過數十

    『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その64 - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2019/01/23
    「我孰與皇帝賢」 どっかの故事に出てきたのと似た言い回しだ~。 領土面積での勝負を最初から最後まで捨てているあたり、あの故事の王より確かに賢そう。
  • 『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その62 - てぃーえすのメモ帳

    その61(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/01/20/000100)の続き。 十一年冬十月、遣周勃征代地。 春正月、淮陰侯韓信謀反、與陳豨為内應。欲夜詐詔諸宮徒奴、以襲呂后・太子、其舍人告之。呂后與蕭何謀、詐令人從上所來、言陳豨已死、群臣皆賀。遂執信斬之、夷三族。信方斬、歎曰、悔不用蒯通之言、為女子所執。上自邯鄲至洛陽、召蒯通、將烹之。通曰、臣聞狗各吠非其主。當彼之時、臣但知有齊王信、不知有陛下。且秦失其鹿、天下爭逐之、高才輕足者先得。當此之時、爭欲為陛下所為、顧力不能、可盡烹邪。乃赦之。 上使使者拜丞相蕭何為相國、益封五千戸、令卒五百人・一都尉、為相國衛。諸群臣皆賀、故秦東陵侯邵平獨揖曰、禍自此始矣。上暴露於外、而君守其内、非有矢石之難。而益封置衛者、以今淮陰侯新反於中、有疑君心。夫置衛者衛君、非所以寵君也。顧君讓封勿受、以家財給軍。何從之。上

    『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その62 - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2019/01/21
    劉邦にとって人質としての価値がマイナスかもしれない呂后と太子を襲う事から始めるクーデターの最終目標って、一体何なのだろう? 確かに「詐詔」まではリアリティのおかげで成功率が高そうだが。
  • 『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その61 - てぃーえすのメモ帳

    その60(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/01/19/000100)の続き。 九月、陳豨接下賓客、從車千餘乗。 初豨適代時、辭淮陰侯韓信。韓信既廢、恐懼怨望、乃與豨謀曰、趙・代精兵處也。公反于外、上必自出。吾從中起、天下可圖也。 豨反、上欲自撃之。建成侯周惞泣曰、陛下常自行、是無人可使。初惞從上、毎有不利、終無離上之心。上以為愛我、賜上殿不趨。 上遂東至邯鄲、選壯士可令將者四人、各封千戸侯。左右皆曰、此人何功而封千戸。上曰、非爾所知。夫陳豨反、趙・代皆豨之有、吾以羽檄徴天下兵、未有至者。今獨邯鄲中兵至、吾何愛四千戸、不以慰趙子弟心乎。復求樂毅之後、得樂叔、封樂郷侯、號曰華成君。令吏民為豨所劫略皆赦其罪。 問豨將皆故賈人、曰吾知易與之矣。乃多與金購豨將、將多降。 是時沛人任敖素善於上。上以客從、拜為上黨太守、堅守不下。封敖廣阿侯。御史大夫趙堯撃豨有

    『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その61 - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2019/01/20
    晩年の韓信の無能さと劉邦の貫禄は異常。史書に残らない謎の名軍師が、韓信が斉を攻めるあたりまで出向していて、その後は劉邦の下に舞い戻ったとか、そういう事情でもあったんじゃないのかな。
  • 『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その23 - てぃーえすのワードパッド

    その22(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20181126/1543158322)の続き。 春正月、羽陽尊懷王為義帝、徙之長沙、都郴。 羽自立為西楚霸王、王梁・楚地九郡、都彭城。 立沛公為漢王、王巴・蜀・漢中四十一縣、都南鄭。 三分關中、立秦三將、章邯為雍王、司馬忻為塞王、董翳為翟王。 黥布為九江王。 徙趙王歇為代王、立張耳為常山王。 徙魏王豹為西魏王。 徙燕王廣為遼東王、燕將臧荼為燕王。 徙齊王市為膠東王、齊將田都為齊王。 趙將司馬邛數有功、立為殷王。 瑕丘申陽先下河南、迎楚王於河上、立陽為河南王。 呉芮率百越佐諸侯、立芮為衡山王。 義帝柱國共敖、別將撃河南功多、立敖為臨江王。 舊齊王建之孫田安、初以濟北數城降、立為濟北王。 田榮背項梁、陳餘不從入關、故皆不王、然素聞餘賢、封南皮三縣。 為鄱君別將枚豉功多、封十萬戸侯。 (『漢紀』高祖皇帝紀巻第二) 項羽、主君の楚王を

    『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その23 - てぃーえすのワードパッド
    gureneko
    gureneko 2018/11/27
    長年疑問だった「西魏」へのヒントを貰えた。 燕等については「本日からこの狭い範囲だけで~す」とやっておきながら、魏はしっかり「西魏」扱いしたのは、自分の東魏利権を確固たるものにするためだったのかも。
  • 『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その15 - てぃーえすのワードパッド

    その14(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20181113/1542035388)の続き。 十有二月、項羽濟河、沈船破釜、燒廬舍、令人持三日糧、至則圍王離、與秦軍遇、九戰九勝、絶甬道、大破秦軍、虜王離。當此時諸侯救鉅鹿者十餘壁、莫敢進、及楚撃秦、諸侯皆從壁上望。楚戰士無不一當十、又羽呼聲動天地。諸侯軍人人莫不怖懼。於是既破秦軍、羽見諸侯上將、入轅門、膝行而前、莫敢仰視羽者。由是為諸侯上將軍、兵皆屬羽焉。於是羽威權遂振四海。 初、宋義與項羽將五萬、距秦三將。當王離與羽大戰時、精兵四十萬衆、并章邯軍故也。是時枉矢西流如火、流星蛇行、若有首尾、廣長如一匹布著天。矢星墜至地即石也、枉矢所觸、天下所共伐也。凡枉矢之行、以亂平亂、項羽伐秦之應。 (『漢紀』高祖皇帝紀巻第一) 項羽、「背水の陣」で秦将王離(王翦の孫)を破る。秦側は40万人、項羽は5万人程度でありながらの大勝であり、そ

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    gureneko
    gureneko 2018/11/17
    この時の項羽は、場合によってはただの反乱者扱いで失うものがなかったからこそ、背水の陣が敷けたのだと思う。 ある意味で本人だけは最初から背水の陣だったのだろう。 兵隊はそれにつき合わされた。
  • 魯公の礼 - てぃーえすのワードパッド

    http://d.hatena.ne.jp/T_S/20181005/1538665962で、劉邦は項羽を「魯公禮」によって葬った、と記されていた。 ところで、この項羽の「魯公」についてだが、この時期の楚の制度ではこうであると言われている。 高祖乃立為沛公。 【注】 孟康曰「楚舊僭稱王、其縣宰為公。陳渉為楚王、沛公起應渉、故從楚制、稱曰公。」 (『漢書』巻一上、高帝紀上) 楚においては県の長官を「公」と言っていたのだという。 劉邦の「沛公」がそれだというのだ。 つまり、楚王によって「魯公」になった項羽は、「魯(県)の長官」という意味である可能性が高い。 劉邦が項羽を葬った時の「魯公としての礼」というのも、「県長官相当としての格式」を意味していたのではなかろうか。 そうだとしたら、正直あまり高い格式とは言えない。 陳勝の墓に置かれたような墓守も記録がないあたり、項羽の事はそれほど高く扱わなか

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    gureneko 2018/10/06
    『論語』で、称号だけ御大層なキャラとして「葉公」が出てくるけど、死後の項羽がそれと同等という発想はこの記事を読むまで気付かなかった。まさに「論語読みの論語知らず」。
  • 『史記』項羽本紀を読んでみよう:その35 - てぃーえすのワードパッド

    その34(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180924/1537715193)の続き。 楚漢久相持未決、丁壯苦軍旅、老弱罷轉漕。 項王謂漢王曰「天下匈匈數歳者、徒以吾両人耳。願與漢王挑戰決雌雄、毋徒苦天下之民父子為也。」漢王笑謝曰「吾寧鬬智、不能鬬力。」項王令壯士出挑戰。漢有善騎射者樓煩、楚挑戰三合、樓煩輒射殺之。項王大怒、乃自被甲持戟挑戰。樓煩欲射之、項王瞋目叱之、樓煩目不敢視、手不敢發、遂走還入壁、不敢復出。漢王使人輭問之、乃項王也。漢王大驚。 於是項王乃即漢王相與臨廣武輭而語。漢王數之、項王怒、欲一戰。漢王不聽、項王伏弩射中漢王。漢王傷、走入成皋。 (『史記』巻七、項羽紀) 項羽、劉邦に一騎打ちによる決戦を求めるが、当然劉邦は取り合わない。 まあ、前回までの流れでは明らかに項羽の方が悪い状況に置かれているのだから、より有利な劉邦が敢えて項羽に乗る必要があるわ

    『史記』項羽本紀を読んでみよう:その35 - てぃーえすのワードパッド
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    gureneko 2018/09/26
    いつも思うけど、項羽の第十の罪って、他の罪と若干内容がかぶっている。 しかしだからこそ劉邦の現場でのアドリブ感が伝わってきており、後世の創作の可能性が低いとも感じる。
  • 『史記』項羽本紀を読んでみよう:その30 - てぃーえすのメモ帳

    その29(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180918/1537196692)の続き。 漢軍滎陽、築甬道屬之河、以取敖倉粟。 漢之三年、項王數侵奪漢甬道、漢王乏、恐、請和、割滎陽以西為漢。項王欲聽之。 歴陽侯范筯曰「漢易與耳、今釋弗取、後必悔之。」項王乃與范筯急圍滎陽。漢王患之、乃用陳平計輭項王。項王使者來、為太牢具、舉欲進之。見使者、詳驚愕曰「吾以為亞父使者、乃反項王使者。」更持去、以惡項王使者。使者歸報項王、項王乃疑范筯與漢有私、稍奪之權。范筯大怒曰「天下事大定矣、君王自為之。願賜骸骨歸卒伍。」項王許之。 行未至彭城、疽發背而死。 (『史記』巻七、項羽紀) 滎陽で対峙する劉邦と項羽。だが、項羽の攻撃によって危機に瀕した劉邦は講和しようとする。 だがそれを范増が止める。前から范増は対劉邦強硬派だったのである。 其後、楚急攻、絶漢甬道、圍漢王於滎陽城。久之、

    『史記』項羽本紀を読んでみよう:その30 - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2018/09/19
    読んでてガクブルした。「離間の計が見事に効いた!」なんていうのは物語的であって、仕掛けた以上は范増の追放か項羽の権威低下の少なくともどちらかが発生する策だったのかもしれない。
  • 『史記』項羽本紀を読んでみよう:その19 - てぃーえすのメモ帳

    その18(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180905/1536073982)の続き。 於是張良至軍門、見樊噲。樊噲曰「今日之事何如?」良曰「甚急。今者項莊拔劍舞、其意常在沛公也。」噲曰「此迫矣。臣請入、與之同命。」 噲即帯劍擁盾入軍門。交戟之衛士欲止不内、樊噲側其盾以撞、衛士仆地、噲遂入、披帷西嚮立、瞋目視項王、頭髮上指、目眥盡裂。項王按劍而跽曰「客何為者?」張良曰「沛公之參乗樊噲者也。」項王曰「壯士、賜之卮酒。」則與斗卮酒。噲拜謝、起、立而飲之。項王曰「賜之彘肩。」則與一生彘肩。樊噲覆其盾於地、加彘肩上、拔劍切而啗之。項王曰「壯士,能復飲乎?」樊噲曰「臣死且不避、卮酒安足辭!夫秦王有虎狼之心、殺人如不能舉、刑人如恐不勝、天下皆叛之。懷王與諸將約曰『先破秦入咸陽者王之』。今沛公先破秦入咸陽、豪毛不敢有所近、封閉宮室、還軍霸上、以待大王來。故遣將守關者、備他盜出入與

    『史記』項羽本紀を読んでみよう:その19 - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2018/09/07
    この時点で既に項羽が「大王」と呼ばれていたのは興味深い。
  • 『史記』項羽本紀を読んでみよう:その18 - てぃーえすのメモ帳

    その17(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180903/1535900509)の続き。 沛公旦日從百餘騎來見項王、至鴻門、謝曰「臣與將軍戮力而攻秦、將軍戰河北、臣戰河南、然不自意能先入關破秦、得復見將軍於此。今者有小人之言、令將軍與臣有卻。」項王曰「此沛公左司馬曹無傷言之。不然、籍何以至此。」項王即日因留沛公與飲。 項王・項伯東嚮坐。亞父南嚮坐。亞父者、范筯也。沛公北嚮坐。張良西嚮侍。 范筯數目項王、舉所佩玉玦以示之者三、項王默然不應。范筯起、出召項莊謂曰「君王為人不忍、若入前為壽、壽畢、請以劍舞、因撃沛公於坐殺之。不者、若屬皆且為所虜。」莊則入為壽、壽畢、曰「君王與沛公飲、軍中無以為樂、請以劍舞。」項王曰「諾。」 項莊拔劍起舞、項伯亦拔劍起舞、常以身翼蔽沛公、莊不得撃。 (『史記』巻七、項羽紀) 劉邦、朝になるとすぐに項羽の軍営を訪ねる。 お供は百騎というから、

    『史記』項羽本紀を読んでみよう:その18 - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2018/09/07
    念のため暗号に頼った范増の敗北。劉邦の目の前で大声で「こいつころそーぜ!」と言えば、結局対立は避けられないという雰囲気になって、計画通りになっていたかもしれない。
  • 楚と趙 - てぃーえすのメモ帳

    武臣到邯鄲、自立為趙王、陳餘為大將軍、張耳・召騷為左右丞相。 陳王怒、捕繫武臣等家室、欲誅之。柱國曰「秦未亡而誅趙王將相家屬、此生一秦也。不如因而立之。」 (『史記』巻四十八、陳渉世家) かの陳勝は武臣・陳余・張耳らを趙の地へ派遣して自分の楚の勢力圏にしようとしたようだが、武臣らは勝手に独立して趙王や将・相を名乗った。 この勝手に独立した陳余・張耳たちこそ章邯と戦った趙の人間たちである。 そして、宋義の頃の楚には陳勝の頃の楚の人間も残っている。例えば呂臣などのように。 そういった陳勝時代からの者などは、普通に考えてこの時の趙(陳余・張耳)にはいい感情を抱いていなかった事だろう。 だからこそ、宋義も「趙と秦を戦わせて漁夫の利を得よう」というぐう畜な策を実行しようとしたのではなかろうか。 彼ら楚からすれば、この時の趙は信用できる相手ではなく、むしろ、この機にいっそ潰してしまいたいとすら思ってい

    楚と趙 - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2018/07/20
    秦末の楚人の対趙感情という視点から宋義の戦略を説明した記事。言われてみると「そりゃそうだな」と思ってしまうからこそ、天才的な内容だと思う。
  • たとえば - てぃーえすのメモ帳

    たとえば、三国志の劉備なんかの事を「戦に負けまくっているのに家柄や口先だけで生き残った」みたいに考える人というのも少数にしろいるのではなかろうか。 そう考える事自体は別に構わない*1。 ただ、そうなると、あの名家だろうが皇族だろうが確実に勝ち残るという保証のない生き馬の目を抜く時代に生きていたにも関わらず、劉備は口先だけで最後まで生き残ったという事になり、その口先については三国時代どころか人類史上類を見ないほどの悪魔的能力だった、という結論になるのではなかろうか。 ※ちょっとした戯言です。 *1:私はそうは思っていないが。

    たとえば - てぃーえすのメモ帳
    gureneko
    gureneko 2018/07/05
    最終的には史実と合流する歴史フィクションや歪んだ歴史観で、ある人物・勢力の一部の能力を過度に変更すると、辻褄合わせのために別の能力も代償として変化する。ゲームの「能力値を割り振って下さい」に近い。