旧県庁敷地一帯が明治初期まで万日河原と呼ばれていたことは前日の記事でも述べたが、この名称は万日寺という念仏寺院があったことに由来している。別名念仏寺とも呼ばれ、広い池も有し、夏には花火なども行われる城下民のいこいの場でもあったが、江戸時代のうちに廃寺となっている。 この寺は檀家のない寺だが、旅人や行き倒れ死人などを多数葬ったと見られ、明治末年の大火で以前の県庁が類焼した後もしばらく人骨が幾度も掘り出されたようである。 また、山形郷土史の先駆者である故川崎浩良氏の『山形史跡総覧』によれば、1人の傾城(遊女)が情事にからんで投身自殺をしたといわれる井戸が寺の境内にあり、現在の旧県庁舎の南西隅の小坂の下に当たり、氏の昭和6年現在の記述にも遺構が存在していたとあり、また、近くの老人が昭和47年2月の市広報のコラムに「現存」と記述している。 しかし、現在はその遺構を目にすることはできない。(写真の石