国書データベース ※国文学研究資料館所蔵 (CC BY-SA) 【原文】 我、最期《さいご》の事ハ、法恩寺村《ほうをんじむら》の清右ヱ門も確かに見《ミ》たり」 と様/゛\の恐《おそ》ろしき事共、云《い》ひし。 人〻、恐《をそ》れ噪《さワ》ぎ、村の者共来て、問《と》ハバ、「しか/゛\」と答《こた》ふ。 頓《ヤが》て僧《そう》彼是《かれこれ》を招《まね》き、祈祷《きたふ》セしかど、更《さら》に験《しるし》無かりし。 然《しか》るに、三月十日、飯沼《いゝぬま》弘経寺《くぎヤうじ》の所化《しよけ》祐天《ゆうてん》、同侶《どふりよ》二三人 倡《いざな》ひ来りて見給ふに、件《くだん》の苦しミにて有りければ、同音《どうをん》に數遍《すべん》念仏《ねんぶつ》して苦しみを問えバ、 「怨霊《をんれう》、今迄ハ胸《むね》の上に居《い》て苦しかりしが、今ハ脇《ワき》に居《い》て我《ワ》が手《て》を放《はな》たず」