昭和7年、直木三十五が正月に「ファシズム宣言」したその年、五・一五事件が起きた。海軍将校らと大川周明によるクーデターである。犬養首相が暗殺され、気まぐれで相撲観戦に出かけたチャップリンは難を逃れた。 この事件の肝は、クーデターそのものではなく、その裁判において大川らが「民衆の窮状」を訴えると、助命嘆願運動が起きて数万通もの手紙が寄せられたことである。そのせいで、未曾有のテロにしては判決が軽いものとなり、次の二・二六を誘発した、とされる。実際それ以前に、前年(昭和6年)の三月事件及び十月事件などは、未遂とはいえクーデター発覚についてほとんど処罰らしい処罰がなされておらず、首謀者はこうしたことについて、ほとんど軍をなめていたと思われる。なお、三月事件と十月事件については軍で内々に処理されたため、一般に知られるようになったのは戦後のことである。 さて、大川らが訴えた「民衆の窮状」だが、当時は高橋