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  • Daily Life:生物学者は「自然主義的誤謬」概念をどう使ってきたか

    July 16, 2020 生物学者は「自然主義的誤謬」概念をどう使ってきたか 最近発表された人間行動進化学会の声明の中で、「自然主義的誤謬」という哲学由来の概念が使われていた。 そこでは、自然主義的誤謬が、「「自然の状態」を「あるべき状態だ」もしくは「望ましい状態だ」とする自然主義的誤謬と呼ばれる「間違い」」という言い方で紹介されている。これを倫理学者が聞いたなら「いや、自然主義的誤謬はそういう意味じゃないんだけどなあ」と言いたくなるところであろう。しかし、進化生物学者と「自然主義的誤謬」という概念の付き合いはかなり長く、それなりの経緯がある。稿の目的はとりあえずその経緯を追うことで、「自然主義的誤謬」という概念の適切な用法とはなんだろうかということを考えることである。 最初に断っておくが、稿はいかなる意味でも体系的なサーベイとはなっていない。どちらかといえば、目立つ事例いくつかをつ

  • Daily Life:「いただきますの倫理」はいつごろ広まったのか(2)

    June 01, 2018 「いただきますの倫理」はいつごろ広まったのか(2) 前記事のつづき。 6 1998−1999の言及 1998年、1999年の記事においても、1997年までの記事と大きく傾向が変わるわけではない。ただ、いくつか注目すべき記事はある。 朝日新聞 1998年12月19日岡山版「ごみ テーマでおしゃべり」という記事内で、63歳の主婦からの投稿として以下の文章が掲げられている。 私が常に心がけていることは、(1)安いからといって必要以上の料品を買わない。料理するにも残るほど作らない。子供のころ親から教えられていたのは、「事することは物の命をいただくこと」。もったいない気持ちが先に立つ(2)ごみ出しの日は、ごみを小さく切ったり、折りたたんで量を少なくする、など。 この記事の注目すべき点は、「命をいただく」ことと「もったいない」という概念の結びつきが指摘され、材を無駄

  • Daily Life:「いただきますの倫理」はいつごろ広まったのか(1)

    May 29, 2018 「いただきますの倫理」はいつごろ広まったのか(1) 1 いただきますの倫理 日の文脈で動物倫理の議論、とりわけ肉をめぐる議論をしている際に無視できないのが「いただきますの倫理」とでも呼ぶべきものである。この倫理は、人によって内容に異同はあるものの、概ね以下のような主張から構成されている。 ・人間は動植物の命を犠牲にする(「命をいただく」)ことでしか生きていくことはできない。・人間はそうして犠牲になった動植物にせめて感謝を捧げなくてはならない。・その感謝の気持ちを表すのが「(命を)いただきます」という前のあいさつである。・この感謝の気持ちの当然の帰結として、材を無駄にする、べ残しをするといった行為は許されない。 日人の間で大変ポピュラーなこの考え方であるが、西洋流の動物倫理(19世紀型動物愛護、動物福祉、動物の権利等)の観点からは大変奇妙な考え方にうつ

    helioterrorism
    helioterrorism 2018/06/18
    《自発的に犠牲になってくれた相手に感謝を捧げるというのは意味がとおるが、人間が勝手に犠牲にした相手に「感謝」を捧げるというのは「感謝」という概念の意味からしても筋がとおらない。泥棒が被害者に感謝(略》
  • Daily Life:統計的研究に体験談で反論する人と、体験談は証拠にならないと思う人とが話をするためのチェックリスト

    October 22, 2015 統計的研究に体験談で反論する人と、体験談は証拠にならないと思う人とが話をするためのチェックリスト 以下のようなチェックリストを作ってみたので役に立ちそうだと思った方は使ってみてください。 統計的研究に体験談で反論する人と、体験談は証拠にならないと思う人とが話をするためのチェックリスト あなたは以下の主張のどこまでだったら(あるいはどれにだったら)同意できますか。 1 一般論として、人間の体のしくみにはまだわからないことが多い 2 そのため、一般論として、病気は良く分からない理由で治ったり治らなかったりすることがある。 2’この一般論は今問題になっている病気にもあてはまる 3 一般論として、ある治療をうけたあとにたまたま「良く分からない理由で治る」こともある 3’この一般論は、今問題となっている治療と病気にもあてはまる 4 そのため、一般論として、ある治療を

  • Daily Life:欠如モデルの由来と発展(その3)

    February 26, 2012 欠如モデルの由来と発展(その3) (承前、今回でおわりです) 5 欠如モデルCの用例 さて、以上の分析では、欠如モデルB(公衆の科学理解をどのように増進するべきかについてのモデル)や欠如モデルC(科学者への不信などの問題を解決するためのモデル)だとはっきり言えるものは見当たらなかった。特に、現在の日でもっとも優勢であると思わ れる欠如モデルCが1996年の段階になってもすっきりした形であらわれないのは気になるところである。欠如モデルCはどこから出てきたのだろうか。 小 林は典拠として「Wynne 1995」を挙げている。これはHandbook of Science and Technology Studies の「公衆の科学理解」の項へのレファレンスである(Wynne 1995)。しかし、この論文で Wynneは欠如モデルという言葉を明示的には使ってい

  • Daily Life:欠如モデルの由来と発展(その2)

    February 26, 2012 欠如モデルの由来と発展(その2) (承前) 3 その他の初期の用例 初出のはっきりしなさにもかかわらず、90年代前半に、欠如モデルという言葉は、Public Understanding of Science誌 (以下PUS誌と略)を中心として、多くの論者が使う言葉となっていく。その用例のいくつかを確認しておこう。 3-1 Durantらの理解 ZimanとWynneの次にはやい言及としては、Durantらによる言及がある(Durant et al1992) 。 稿で紹介する他の論者らと違い、Durantらはむしろ欠如モデルを擁護する側からこの言葉を利用している。Durantが欠如モデルの初出時のワークショップに出席して批判に答える側だったことを考えるなら、彼が欠如モデルをどう理解したか、というのは、欠如モデルがもともとどういう意味か、という問いにおいて

  • Daily Life:欠如モデルの由来と発展(その1)

    February 23, 2012 欠如モデルの由来と発展(その1) 科学技術と社会の関わりを論じる場面で「欠如モデル」という言葉をよく目にする(しない?)が、一体どういう意味なのだろう。いや、典型的な用法は知っているけれども、もともとどういう意味の言葉として導入されたのだろう。そういう素朴な疑問からちょっと調査をしてみたので報告しておきたい。 以下の記述は、科学技術社会論は何についてどういうことを言っている分野か、というくらいの知識は持っていることを前提に書いている。その意味では、「欠如モデル」という言葉をすでに何度か耳にしたことがある人が対象である。まったく聞いたこともない、という方は以下に挙げる教科書などをちょっと見てから読んでいただかないとなかなか理解が難しいだろう。 けっこうな分量になってきたので今回は「その1」ということで最初の部分だけ掲載する。文献情報は最後にまとめて掲載する

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