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ブックマーク / www.medieviste.org (12)

  • ふたたび、政治と情動

    2週間ほど、仕事関係でちょっと追われたせいで、ブログはあいだが空いてしまったが、ぼちぼち通常の活動に戻ろうと思う。というわけで、再び(みたび?)、政治の問題として情動の話。政治と情動を一続きのものとして扱う発想は、フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー (平凡社ライブラリー)』(杉村昌昭訳、平凡社、2008-2016)でも共有される問題だ。この小著、原著は89年刊でありながら、政治的に無名時代のトランプ不動産王として、家賃の搾取などで貧困層を圧迫してホームレスを増産していることを批判した一節があり、一時期ネットでも話題になっていたように思う。改めて読んでみると、全体の話の流れは、相互補完的な三つのエコロジー(社会的エコロジー、精神的エコロジー、環境エコロジー)を再編し、社会・個人の実践を再構成しようという主張に要約できる。ここで言うエコロジーは、いわば様々な要因によって固着・汚染されして

    ふたたび、政治と情動
    hharunaga
    hharunaga 2019/07/10
    「(フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』では)ヘイトの問題のように、今ある状態が実は追い詰められて生じた人為的なものであると解釈し、…ならば、それをほぐし、解放することも同じく可能なのではないかと
  • ハイデガーと革命運動

    これも年越しから。思うところあって、中田光雄『哲学とナショナリズム―ハイデガー結審』(水声社、2014)を読んでみた。ハイデガーのナチスへの加担について再考した一冊。古き良き哲学書を彷彿とさせる晦渋な文章だが、基的にはハイデガー哲学の基図式、ドイツにおけるナチス運動の展開、そして両者の関係性などを取り上げ、ハイデガーが厳密に何に加担し、何に加担していないかを明らかにしようとしている。全体の重要なポイントというか、中心的な枠組みをなしているのが、西欧語においていわゆるbe動詞が含み持つ、「〜である」というコプラの用法と、「〜がある」という存在規定の用法だ。前者が織りなすのは事象が相互に照応する、秩序ある世界であり、後者はそれに対するある特定事象の屹立を示すものとなる。これは一種の上部構造と下部構造でもあって、前者によって後者は取り込まれ、全体の下支えとして閉覆・亡失されてしまう。ハイデ

    ハイデガーと革命運動
    hharunaga
    hharunaga 2017/01/20
    “ハイデガーはまさに(be動詞の)そうした「〜である」の織りなす秩序に、その底部をなす「〜がある」の実存・存在を暴き出すことで、そこにある種の哲学的な社会革命運動をもたらそうとしているのだ”
  • ダン・ブラウン的ダンテ像……

    映画『インフェルノ』が公開になっているが、いまのところ、とりあえず観に行く予定はない。ダン・ブラウンについても、『ダ・ヴィンチ・コード』こそ通読したものの、『天使と悪魔』とかは途中で放り投げたので、とりあえず『インフェルノ』を読む気もあまりしない。そんな中、ダンテの専門家による『インフェルノ』の書評というか、ダンテ像の検証(笑)が紹介されていたので、つらつらと読んでみた。テオドリンダ・バロリーニ「ダン・ブラウンと誤ったダンテの事案」というもの(Teodolinda Barolini, Dan Brown and the Case of the Wrong Dante, in Dan Burstein & Arne de Keijzer, Secrets of Inferno: In the Footsteps of Dante and Dan Brown, Story Plant, 201

    ダン・ブラウン的ダンテ像……
    hharunaga
    hharunaga 2016/11/07
    「この(『インフェルノ』の)書評の著者によれば、ダンテの詩の力点が恐怖や惨めさではなく救済にあるという核心的な部分に、ブラウンが抵抗を示しているところ(とくに序盤のようだ)が最も納得いかない、と…」
  • アウグスティヌス主義とエピクロス主義

    米田昇平『経済学の起源: フランス 欲望の経済思想』(京都大学学術出版会、2016)を見始めているところ。まだ全体の3分の1程度だかけれど、すでにしてこれはなかなか面白い。近代経済学の祖といえばアダム・スミスだけれど、そこで展開された諸テーマ(自由主義、レセ・フェールなどなど)は、それに先だって17、18世紀のフランスの思想に見出されるという。そのベースとなったのはジャンセニスムに代表されるアウグスティヌス主義。けれども、ジャンセニスムの人間観は現世の人間をネガティブに捉えるのが特徴だったはず。それがどのように世俗の財の追求を肯定するように転換したのかはとても興味深い問題だ。同書では、ポール・ロワイヤル修道院のピエール・ニコル(1625 – 95)、ジャンセニスムの影響を強く受けた後に法曹界に生きたボワギベール(1646 – 1714)、『蜂の寓話』で知られるマンデヴィル(1670 – 1

    アウグスティヌス主義とエピクロス主義
    hharunaga
    hharunaga 2016/05/14
    近代経済学の諸テーマ(自由主義、レセ・フェールなど)のベースとなったのは、ジャンセニスムに代表されるアウグスティヌス主義という。米田昇平『経済学の起源: フランス 欲望の経済思想』。
  • 新たなる創成神話? – メイヤスーによるマラルメ

    偶然世界を極限にまで突き詰めるメイヤスーが2011年に問うた『数とセイレーン』(Quentin Meillassoux, Le nombre et la sirène, fayard, 2011)。以前の『現代思想』誌で、メイヤスーが神論のほうに向かっているといった話があったけれども、ここではマラルメの『骰子一擲』を題材に、かなり独創的な解釈を通じて、おそらくはそうした新たな神論の一端を垣間見せている。前半はマラルメのその詩が、数をコード化したものであるとしてそのコードを明らかに(?)し、後半は、同時にそのコードには不確定さ・偶然が永続的に刻印されていることを論じていく。前半はなんというか、メソッド的に「トンデモ」感があって、おそらく文学研究的にはかなりの異論があるところと思われ、その強引さにちょっと引いてしまうかも(苦笑)。ここで投げ出してしまう人も少なからずいるだろうなという案配。けれ

    新たなる創成神話? – メイヤスーによるマラルメ
    hharunaga
    hharunaga 2015/12/29
    「(マラルメは)乗り越えなくてはならないのは、古代ギリシアの形式ではなく…、詩作品は(中世以来の)キリスト教の典礼にすら肩を並べる現実的な出来事をなさなくてはならないと考えていた」
  • 古典詩への手引きの書

    今回の田舎行きでは、行きと帰りの新幹線ではこれを読んでいた。沓掛良彦『人間(ひと)とは何ぞ:酔翁東西古典詩話 (叢書・知を究める)』(ミネルヴァ書房、2015)。漢籍や西欧の古典詩まつわるエッセイ集なのだけれど、個人的には前者にはあまり縁がなく、後者についてもギリシア詩に真っ向から取り組めるほどには古典ギリシア語を読みこなせてはおらず、一部の哲学書を囓る程度でしかないけれども、いつかはアプローチしたいものと願っている。そんなわけで同書のとくに第二部は、碩学による古典詩案内の第一歩として興味深く読める。ギリシアが決して海洋民族などではなかった(第八章)、あるいはギリシアには秋を除く三つの季節感しかなかった(第一五章)といったちょっと意表をつく話(言われてみればその通りかと納得するのだけれど)、あるいはまたポール・ヴァレリーをもってしても古典の翻訳は難しいものであるといった指摘(第一四話)や、

    古典詩への手引きの書
    hharunaga
    hharunaga 2015/10/18
    「ギリシアには秋を除く三つの季節感しかなかった」 ←へぇ~。沓掛良彦『人間(ひと)とは何ぞ:酔翁東西古典詩話』(ミネルヴァ書房)。
  • 美術史家のギロチン考

    またまたダニエル・アラスの著作から、『ギロチンと恐怖の想像領域』(Daniel Arasse, La guillotine et l’imaginaire de la Terreur, Flammarion, 1987-2010)を読んでいるところ。まだほぼ前半。タイトルの通り、これはギロチンにまつわる表象史の試み。罪人の処刑方法(斬首や八つ裂きなど)が残忍だとされた18世紀に、もっとスピーディに苦痛もなく処刑ができる方法として考案されたのがギロチンで、提唱者のギヨタンはその「人道的」な面を強調していた。装置の原型はもっと古いようで、15世紀から16世紀のイタリアにはその古形があったというし、12〜13世紀のナポリほかに同じような装置があったとも言われる。けれどもやはり面白いのは、当初唱えられた人道性に反して、ギロチンが恐怖の対象となっていったその有様だ。処刑のあまりの迅速さや、斬首後に首

    美術史家のギロチン考
    hharunaga
    hharunaga 2015/07/02
    “スピーディに苦痛もなく処刑ができる方法として考案されたのがギロチンで、提唱者のギヨタンはその「人道的」な面を強調していた” ←日本の切腹も苦しいので介錯されるようになったのと、ちょっと似てる?
  • サイエンス外フィクション?

    メイヤスー『形而上学とサイエンス外世界フィクション』(Quentin Meillassoux, Métaphysique et fiction des mondes hors-science, Aux Forges de Vulcain, 2013)という小著を読む。基的には講演をもとにしたものらしい。メイヤスーの極限的な偶然世界論は、まさに極北たる哲学的世界観でもってなにやら現実世界の向こう側(妙な言い方になってしまうけれど)を思わせるものだけれど、それを何らかの形で現実世界の諸相へと繋ごうとする試み……なのかしら(?)。ここではさしあたり自説を説話的世界へと持ち込み、文学的なジャンルの刷新を促そうとしている。ヒュームの懐疑論(法則の一定性はどう担保されうるのかという問い)を受けて、メイヤスーはポパーの認識論的な不定性による回答や、カントの超越論的な批判を斥ける。いずれも、突き詰めれば

    サイエンス外フィクション?
    hharunaga
    hharunaga 2015/04/02
    メイヤスー『形而上学とサイエンス外世界フィクション』での、「法則と意識の両方について定常性がない世界」の例は、アシモフの短編『反重力ビリヤード』などだという。
  • (雑記)猜疑心と暴走と

    このところ、空いた時間で山崎正一、串田孫一『悪魔と裏切者: ルソーとヒューム』(ちくま学芸文庫)を読んでいた。ルソーとヒュームの感情のもつれが、こじれにこじれて決別にいたるプロセスを、刊行された書簡をもとにまとめたもの。文庫化のもととなったは1978年刊だそうだが、それは再版で、初版は1949年とか。歴史を感じさせる。けれども内容的にはぜんぜん古さを感じさせない。というか、とてもアクチャルでさえある。ルソーの心にめばえたごく小さな猜疑心が、とてつもなく大きな悪をたぐり寄せるふうが、なんとも痛々しい。わずかな波紋がやがては情念の大波を形成し、そうなるともはや後戻りはできない……。最初はヒュームに同情的だった著者たちが(ご人らも意外だったとコメントしているのだけれど)、やがてむしろルソーのほうに肩入れしていくあたりもとても面白い。常識人として描き出されるヒュームが、ルソーの巻き起こす情念の

    (雑記)猜疑心と暴走と
    hharunaga
    hharunaga 2015/02/12
    “「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」というマリー・アントワネットの言とされる神話化された一文が、もとはルソーによる捏造だったという話〔…〕。出典は『告白』の第六巻” ←へぇ。
  • 「エクリチュール」から「ライン」へ?

    ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』(工藤晋訳、左右社)をほぼざっと読み。テーマ自体は久々に心躍るものだ。人類が紡いできたなにがしかの「線」に着目した横断的な文化人類学ということなのだけれど、これって30年ほど前ならフランス語の「エクリチュール」(もともとは「文字」とか「書きっぷり」のことだけれど、敷衍されて線刻・刻印行為などをも指したりしてきた)の概念で包摂されてきたテーマ系そのもの。けれどもそこはアングロサクソン流、というべきか、線刻行為としての動的な概念だったエクリチュールは、ここではより静的というか、現象面を重視した「ライン」という概念に包摂されている。でも、たしかにそういう現象面の重視によって、エクリチュール概念それだけでは取りこぼしがちだった(あるいはうまく展開できていなかった?)領域を拾い上げていることも事実だ。「ライン」概念は、エクリチュールの専売特許みたいなものだっ

    「エクリチュール」から「ライン」へ?
    hharunaga
    hharunaga 2014/06/11
    “「ライン」概念は、エクリチュールの専売特許みたいなものだった「痕跡」「軌跡」概念のほかに、「糸」の概念でもって、布やその他…の「紡ぐ」「結ぶ」行為をもフルに射程に収めている”
  • ドゥルーズと権力論

    空き時間読書として読んでいた國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)』、岩波書店、2013)。これはドゥルーズの全体像を見通すためのいわば新しいスタンダードな概説・入門書かもしれない。年頭に取り上げた千葉雅也、山森裕毅などとも一部オーバーラップしているけれど(前半の、カント論、ヒューム論を通じて超越論的経験論を論じているあたりとか、プルーストのシーニュをめぐる一種の教育論のあたりなど)、そこから先のガタリとの協働作業の位置づけ(教育論から出てきたある種の限界を突き破るためだとされる)や、後半のハイライトとなるドゥルーズ流フーコー論がらみの「権力」をめぐる問題などは、やや冗長ながらも(前提となるフロイトやラカン、フーコーなどを経るからなのだけれど、議論のためにはそれらは避けて通れない)十分に刺激的なもの。とくに最後の、ドゥルーズの欲望を軸に据えた権力発生論はひときわ興味深い。た

    ドゥルーズと権力論
    hharunaga
    hharunaga 2014/03/14
    國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』について。「とくに最後の、ドゥルーズの欲望を軸に据えた権力発生論はひときわ興味深い」
  • ルネサンス初期の物質文化

    サミュエル・コーン「ルネサンス期のモノへの執着:遺書・遺言書における物質文化」(Samuel Cohn, Jr., Renaissance attachment to things: material culture in last wills and testaments, Economic History Review, University of Glasgow, 2012)をざっと読む。おもにルネサンス初期のイタリア都市部における市民らの資産・財産への執着を、当時人々の間で一般化していたという遺言書から浮かび上がらせようという興味深い論考。財産目録が一部の富裕層にしか見られないのに対して、遺言書はより一般的で、残っている史料としての数も多く、それでいてあまり分析が進んでいないのだそうで、まさに宝の山なのだとか。で、そこから同論考で示されるのは、ペスト禍(1348年の流行よりも、むし

    ルネサンス初期の物質文化
    hharunaga
    hharunaga 2014/02/13
    「死に際して寄進などを行うのが一般的だった状況がペスト禍を期に一転し、続く世代に対して将来の遺産管理をどうするのか事細かく指示するようになった」「資産は処分したりせずに、手元に置いておくものとなった」
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