思想とblogに関するhidedayoのブックマーク (9)

  • ■ - 「夜」の断片

    紀伊国屋ホールにて開催された『波状言論S改』刊行記念トークセッション「ゼロ年代の批評の地平 ―リベラリズムとポピュリズム/ネオリベラリズム」に参加した。さしたる展開もなく質疑応答も下らなかったこのイベントにおける数少ない見物の中でも象徴的であったのは、論壇においては門外漢である隊長に東浩紀氏の言質からは理想=ヴィジョンが見えないと看破され、それに対し東浩紀氏がポモ系論者のジレンマとして相対的で精微な省察を心がけるがゆえに大きな物語に介入することに抵抗を覚えることを引き合いにだしつつ、理想を語ることも重要であると認めたことであろう。しかしそうした態度は同時に東浩紀氏の批判の対象でもあった宮台真司氏の戦略=技術である「あえて」や大塚英志氏の左翼的な政治路線などの有効性を認めつつも、氏が代替の策を未だ見出せていないことを明らかにしてしまっている。また理想を語ることが重要ということはシャルル・フー

    ■ - 「夜」の断片
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    ハリイカの焼売と中華炒め ハリイカをよく、見かけるようになりましたよ。生け簀で、泳いでいたものを一杯購入しました 立派な大きな墨袋や肝は冷凍保存して 柔らかな身は季節のお豆、お野菜と合わせて中華の炒めものに。新鮮なにんにくの茎は刻み、香り高く欲そそられますね 下足はミンチにし…

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  • [科学に佇む心と身体] - FC2 BLOG パスワード認証

    管理人からのメッセージ 某A社との契約を切られた関係で、大幅な更改を行わねば公開できない状態に陥った ため閉止しました。 ご連絡は http://sciencebook.blog110.fc2.com/ もしくは https://twitter.com/endBooks/

  • ターミノロジーの支配 「っぽい言葉」の誘惑 - MVROV

    (上記特集ページから引用) 現代思想系には入らないけど、重要な。というか、こう話していくと、いわゆる「現代思想」ってものの狭さがよく分かりますね。シンガーは生命倫理、動物の解放論などで有名な倫理学者。クローンやゲノムなど、人間が人間の境界を越えて行く技術がつぎつぎと生み出されてますが、そのとき「どこまでが人間なのか」という問題についてもっともラジカルに考えているひとだと思います。シンガーの基は功利主義的倫理で、利得(interest)を最大化することを公理としておくのだけど、それを徹底すると利得最大化の範囲が人間を超えるんですね。その結果、別に人間と動物との間に境界線を引く必要はなく、重要な境界線はもっと別の形で引けるのではないかと唱えている。例えば、「類人猿のほうが胎児より苦しむ能力があるのだから、オランウータンの権利を胎児の人権より優先するべきなのではないか」というようなことを書い

    hidedayo
    hidedayo 2005/12/04
    ビジネスっぽい言葉をちゃんと言っていないひとがバカに見えるようになったら、むしろ危険だと思うべきです
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    現在アクセスが集中しており表示しにくい状態となっております。 申し訳ございませんが、しばらく時間を置いてからアクセスするようお願いいたします。 ・FC2フォーラム ・FC2インフォメーションブログ ・最新障害情報・メンテナンス情報ブログ

  • 思考錯誤 - 母親毒殺未遂事件とリアリティ・ブログ

    事件そのものについては別に言いたいことはない。 ブログで「毒殺日記」をつけていたのは現象面での新しさにすぎず、ある意味では「ありふれた」少年犯罪であるだろうと思うし。 私が気になるのは(メディア論的な言い方をすれば)事件の「受容空間」の変質とでも言うべきものだ。 マスメディアの報道も、ネット上での消費のされかたも、おおむね相変わらずだが、そのなかで引っかかった(というか軽く衝撃を受けた)のは、極東ブログの次のエントリだ。 http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/11/post_42ce.html これ自体は鋭い文芸批評のように「おもしろい」――不謹慎な言い方かもしれないが――読みではないかと思う。 また、この読みの内容について、どうこう言いたいわけでもない。 内容はどうであれ、こういう「おもしろい」読みが提示されることによって

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  • ララビアータ:デカルトと可能的世界 - livedoor Blog(ブログ)

    デカルトの議論には、大雑把に言って次のような箇所があったと思う。 私が身体を持たないことは、想像可能である(夢かもしれない)。したがって、それは可能であろう。だが、私がそう考える事は、事実であるとしか言いようがない。したがって、そう考えている私は存在する。 ところで、この考える私は、存在するとしか考えられないという点で、身体ではない。したがって、考えるものとしての私すなわち精神としての私は、身体ではない。 必然的に存在するということではもちろんない。前者は認識の真理性の必然性であり、後者は形而上学的必然性である。 つまりデカルトは、懐疑という認識論的可能性を駆使する事によって、私の存在についての形而上学的議論を展開しているのだが、これは成り立たないということである。 同様に、私が田島という人物であるということがもし真実であるとすれば(このことはもちろん認識論的には疑いうるが)、その真理性は

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