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ララビアータ:デカルトと可能的世界 - livedoor Blog(ブログ)
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ララビアータ:デカルトと可能的世界 - livedoor Blog(ブログ)
デカルトの議論には、大雑把に言って次のような箇所があったと思う。 私が身体を持たないことは、想像可... デカルトの議論には、大雑把に言って次のような箇所があったと思う。 私が身体を持たないことは、想像可能である(夢かもしれない)。したがって、それは可能であろう。だが、私がそう考える事は、事実であるとしか言いようがない。したがって、そう考えている私は存在する。 ところで、この考える私は、存在するとしか考えられないという点で、身体ではない。したがって、考えるものとしての私すなわち精神としての私は、身体ではない。 必然的に存在するということではもちろんない。前者は認識の真理性の必然性であり、後者は形而上学的必然性である。 つまりデカルトは、懐疑という認識論的可能性を駆使する事によって、私の存在についての形而上学的議論を展開しているのだが、これは成り立たないということである。 同様に、私が田島という人物であるということがもし真実であるとすれば(このことはもちろん認識論的には疑いうるが)、その真理性は