タグ

2020年8月16日のブックマーク (12件)

  • シスがトランスの役を演じるべきじゃないなら女性BL作家は廃業すべき

    ……という話になるはずなのに、女性BL研究者がハル・ベリーの降板を支持してるのが謎すぎるんだよな。 「大炎上」を受け……ハル・ベリーのトランス役降板は、行き過ぎたポリコレか? | 文春オンライン これは、トランス役にトランスジェンダーの俳優をキャスティングしたっていう話じゃなくて、トランス役に決まってたシスジェンダーの俳優を引きずり下ろしたって話だよね。 私は、トランスジェンダーの俳優にシスジェンダー役を演じる権利と資格があるのと同様にシスジェンダーの俳優にもトランスジェンダー役を演じる権利と資格があるはずだと思うので、質的な演技力に欠けるとかの話であればともかく、シスジェンダーであるというだけの理由でハル・ベリーが引きずり下ろされたのは間違っていると思う。仮にトランスジェンダーの俳優の雇用機会を尊重するにしても、それは新作映画に積極的にトランス俳優を起用していくとかのやり方であるべきで

    シスがトランスの役を演じるべきじゃないなら女性BL作家は廃業すべき
    hilda_i
    hilda_i 2020/08/16
    誰もが自分の人生実録ものしか書けなくなるし、すると自分の生活を守りたい人は書けなくなるわ。
  • 10代で岡田斗司夫、唐沢俊一の本にハマった人の精神史

    はてブで久しぶりに岡田斗司夫、唐沢俊一の名前を見た。 今現在、彼らへの言説はほとんど批判一色だ。自分も批判的に見ている。 しかし、かつて彼らの言説が支持されていた時代もたしかにあったのだ。90年代後半の、ある一時期に。 けれども、彼らのをかつて熱心に読んでいたと口にする人はいない。 スレイヤーズのリスペクトを表明する人がいないのと一緒で、彼らのを熱心に読んでいたってことは「恥ずかしい」ことなのだと思う。 しかし、ここは匿名ダイアリーなので、自分は書いてしまおう。 あれは90年代後半だった。自分は自意識を持て余していた。 アニメや漫画といったオタクコンテンツが好きなことに後ろ暗さを感じていた。 エヴァはヒットしたけれど、それだけで、オタクたちへの一般的な視線はまだまだ一段低く見る傾向が強かった。 自分は15歳で、クラスの端っこでオタク仲間と固まって学校生活を送っていた。 初めて缶コーヒー

    10代で岡田斗司夫、唐沢俊一の本にハマった人の精神史
    hilda_i
    hilda_i 2020/08/16
    最近、山本一郎の動画見てあらやだイケボ!!って思って岡田斗司夫の動画見てあらやだ好みのタイプ!!って思って、自分で思う以上に私はチョロいのかもしれない……と反省したわ。唐沢俊一は知らない。
  • 恋愛工学で人生上手く行くと同時に人間として軽薄になった

    自分は、自分で言うのもなんだけどちょっと性格が変だけど、優しくて、一途で、コミュ障で、誠実な人間で、いじられキャラだと思う。 初めて恋愛工学を使ったのは、友達に紹介された女の子と付き合う為に使った。モテますアピールをしつつ、相手をドキドキさせるために小技を使った程度。 その後は素の自分を出して、所謂非モテコミットをして、フラれた。 それで気を出して、ネトナンってやつをしたわけだ。正直恋愛工学ってのを信用してなかったから、誠実に、付き合う人間を探して頑張ろうとした。 その日行く場所や話題を考えて準備を整えて臨む。相手の言う言葉には、自分なりの言葉で一生懸命考えて、相手の為になるような言葉を重ねる。 下ネタはセクハラになるから入れないようにしていた。 全部ダメだった。下に見られて、ホテルに誘ってもないのに男として見れないと言われた。 そこで徐々に、徐々に恋愛工学で言われたとおりに、「イジり」

    恋愛工学で人生上手く行くと同時に人間として軽薄になった
    hilda_i
    hilda_i 2020/08/16
    まあ出会いなんて運だし。女嫌い拗らせて恋愛工学めいたことしてたけど凄い女傑と結婚した人知ってるし。
  • 食事の注文少なめに、中国の食堂で呼びかけ 習近平氏が食べ残しに憤慨

    中国北部・河北省で、レストランのテーブルに置かれた、べ残しをしないよう呼びかける注意書き(2020年8月13日撮影)。(c)AFP 【8月15日 AFP】中国の習近平(Xi Jinping)国家主席が、品廃棄の問題に取り組んで倹約の考えを取り入れる方針を打ち出したことで、同国のレストランでは、料理を少なめに注文するよう呼びかけられている。 【関連記事】中国の浪費はいつ無くなるのか? 1回の事で1人平均100gのべ残し(CNS) 「光盤(皿を空にする)運動」と呼ばれるこのキャンペーンは、中国で深く根付く、宴会で多めに事を注文する文化的習慣を覆すことを目指したもの。 国営メディアは今週、べ残しが「ショッキングで痛ましい」との習氏の発言を報道。「料の安全保障に関する危機意識を維持する必要がある」とした上で、「今年は新型コロナウイルスのパンデミック(世界的な大流行)による影響で、

    食事の注文少なめに、中国の食堂で呼びかけ 習近平氏が食べ残しに憤慨
    hilda_i
    hilda_i 2020/08/16
    昔、父がよく中国に出張してたから、レストランで完食すると無限におかわりが出てくるって話は聞いてた。
  • 歯列や視力の矯正、新興が価格破壊 新技術で参入 - 日本経済新聞

    健康保険の対象にならない自由診療の分野で、スタートアップの技術が価格破壊をしかける。歯列矯正では3Dプリンターを使って治療費を3分の1に抑える。視力矯正でも手術せずに治す技術を実用化した。新技術で「矯正」医療に参入する企業が増えれば、価格や品質を巡る競争が引き起こされ、曖昧だった自由診療の算定基準の透明性も高まる可能性がある。スタートアップのドリップス(東京・千代田)は5月、3Dプリンターでつ

    歯列や視力の矯正、新興が価格破壊 新技術で参入 - 日本経済新聞
    hilda_i
    hilda_i 2020/08/16
    私が歯の矯正をした時は、百万円の治療費と診察代が毎回五千円かかったわ。受診頻度は多かった時で週一回。
  • 戦争の記憶、いかに次世代へ?Coccoが明かす「祖父母の教え」(琉球新報)

    「忘れなさい」 そう言われると、逆に忘れられなくなることが誰にでもあるだろう。 あれは夏の日差しが強い日だった。 祖母と曾祖母が唯一、沖縄戦のことを話してくれた日。 心が強い人で、“笑い上戸”の祖母がその時は目にハンカチを押しつけながら泣いていた。 そして言ったのだ。「この話は忘れなさい」と。 その孫娘であるアーティスト・Coccoは忘れなかった。 むしろそれはCoccoが「戦争」を語り継ぐ原点になった。 Cocco 1997年にデビュー。「強く儚い者たち」「樹海の糸」といったJ-POPナンバーから「ジュゴンの見える丘」など古里・沖縄をテーマにした歌まで幅広い楽曲を世に送り出してきた。2021年春のNHK連続テレビ小説のヒロインに決まった清原果耶のファーストシングルの作詞・作曲・プロデュースも手がける。 たった一度。祖母の証言 太平洋戦争で日唯一、住民を巻き込んだ地上戦となった沖縄戦。4

    戦争の記憶、いかに次世代へ?Coccoが明かす「祖父母の教え」(琉球新報)
    hilda_i
    hilda_i 2020/08/16
    お祖母さんの「予習をすることない」って言葉で、『この世界の片隅に』が大ヒットした時にみんな精神的軍事教練してるみたいで怖いって思ったのを思い出したわ。
  • 釣り人の男性、飛び込んできた魚に当たり死亡 豪北部

    釣り場を離れる男性(2020年4月26日撮影、資料写真)。(c)CHAIDEER MAHYUDDIN / AFP 【8月15日 AFP】オーストラリア北部で、釣りをしていた56歳の男性がボートに飛び込んできた魚に当たって死亡した。警察当局が15日、明らかにした。 豪北部特別地域(Northern Territory、準州)警察は、「この男性がダーウィン港(Darwin Harbour)で家族や友人らと釣りをしていたところ、大きな魚が胸を打ち付けた」と説明。 一行は男性を岸に上げ、救急隊員らがCPR(心肺蘇生法)を実施した。 警察当局は、「残念ながら、男性は息を引き取った」とし、「この出来事は一風変わっているようだが、ボートに同乗していた人々や、この男性の遺族や友人にとっては、非常に痛ましいものだ」と述べた。 関わった魚の種類については、これまでのところ明らかになっていない。 現場近郊では、

    釣り人の男性、飛び込んできた魚に当たり死亡 豪北部
    hilda_i
    hilda_i 2020/08/16
    ダツじゃないのね。まあ、魚って力が強いもんね……。
  • 文房具屋のおじいさん|青木杏樹

    2015年の春のこと。 わたしはまだ青木杏樹ではなく、ただ趣味小説を書いている人でした。毎日毎日、400字詰め原稿用紙を20枚ワンセットを消費しては、文房具屋に買いに行きました。帰宅するとまた明け方まで20枚消費し、日が高くなる頃には買い足しに行く日々が続きました。 小説とは応募するもの、小説とは他人に読んでもらうもの、という考えがわたしにはありませんでした。 わたしの中には小さな世界がごまんとあり、その世界で生きている人たちはたえず呼吸をしていて、畑を耕し、水を飲み、作物を売ったり買ったりしていました。ときには殺し合って世界は消えてしまうこともありました。そうした流動する世界線がいくつも走り、絡み、まじり、繰り返す、衝動にも近い意識と妄想がするすると動くものですから、歴史をつむぐように彼らの証をのちのちまで残せないものかと考えたのがどうもわたしの執筆の原点のようです。つまり応募する、評

    文房具屋のおじいさん|青木杏樹
    hilda_i
    hilda_i 2020/08/16
    2015年~2020年の話……!?まるで三十年前の話みたい。最近までそういう文房具屋さんが残っていたとは。/頭の中にあるお話を書かなきゃと使命感に突き動かされる系の小説家は強いわね。
  • 『硫化水素が発生し落ちたら死ぬドブ、しばしば轢殺される同級生...昭和30年代の東京芝浦エピソードは壮絶の塊だった』へのコメント

    私の故郷で光化学スモッグのピークはたぶん私が小学校高学年~中学生の頃。空気が黄色っぽくなって星が全然見えなくなったわ。幼稚園の頃は天の川が綺麗に見えてたし蛍も沢山いた。道路も3歳位まで未舗装だった。

    『硫化水素が発生し落ちたら死ぬドブ、しばしば轢殺される同級生...昭和30年代の東京芝浦エピソードは壮絶の塊だった』へのコメント
    hilda_i
    hilda_i 2020/08/16
    家の近くに工場があって沢山トラックが往来してたのに事故に遭わずに済んだのは、両親がかなり気をつけて家の中と庭に柵をつけていたのと、あと道路が未舗装の悪路でトラックがスピード出せなかったからだと思う。
  • 硫化水素が発生し落ちたら死ぬドブ、しばしば轢殺される同級生...昭和30年代の東京芝浦エピソードは壮絶の塊だった

    キリュー @quiriu_pino 父親の語る昭和30年代の東京芝浦の様子は壮絶で、 ・ドブから硫化水素ガスが出ており、落ちたら死ぬと言われていた ・校庭でバタバタ生徒が倒れ、「毒ガス警報」のサイレンが鳴る ・夏休みは小学校で買わされた勾玉状の栄養ゼリー(⁇)を毎日摂取していた 2020-08-14 22:23:41 キリュー @quiriu_pino 中でも印象深かったのは ・「〇組の〇〇さんが車にひかれ亡くなりました」という校長先生のお話がしばしばある ・男の子が女の子の服を着ていたり、その逆も多かった(貧乏なので、事故などで亡くなったきょうだいの服をそのまま着させられている) 2020-08-14 22:27:15

    硫化水素が発生し落ちたら死ぬドブ、しばしば轢殺される同級生...昭和30年代の東京芝浦エピソードは壮絶の塊だった
    hilda_i
    hilda_i 2020/08/16
    私の故郷で光化学スモッグのピークはたぶん私が小学校高学年~中学生の頃。空気が黄色っぽくなって星が全然見えなくなったわ。幼稚園の頃は天の川が綺麗に見えてたし蛍も沢山いた。道路も3歳位まで未舗装だった。
  • 戦わぬまま餓死・病死5千人…見放されたメレヨン島、何が生死を分けた? | AERA dot. (アエラドット)

    軍が設営した島・フララップ島の滑走路=2003年、友松撮影 戦後初の引き揚げ船で大分・別府港に着いたメレヨン島からの復員兵=1945年9月 (c)朝日新聞社 メレヨン島の海岸に残る日海軍の砲身=66年、遺骨調査団撮影 (c)朝日新聞社 戦死者約300万人の太平洋戦争末期、一度も格的な戦闘をしないまま、兵士の7割以上、約5千人が命を落とした島がある。ほとんどが餓死か病死だったという。何が生と死を分けたのか? ノンフィクションライター・友松裕喜氏が真相を追った。 【写真】戦後初の引き揚げ船で大分・別府港に着いたメレヨン島からの復員兵 *  *  * 赤道に近い北緯7度東経143度、太平洋のメレヨン島=ウオレアイ環礁は、東西約8キロ、南北約5キロに海抜約3メートルの約16の島が点在している。 久米宏氏が出演していたテレビ朝日「ニュースステーション」のディレクターとして、2001年、私は

    戦わぬまま餓死・病死5千人…見放されたメレヨン島、何が生死を分けた? | AERA dot. (アエラドット)
    hilda_i
    hilda_i 2020/08/16
  • 「私の戦争は、終わらなかった」戦災孤児が語る、終戦後の"地獄"

    「みんなね、8月15日に負けて終わりました、気持ちが自由になったっていうけれど、あたしなんかそんなの全然なかった。そもそも戦争が終わったことも知らない。自分が生きるのに、精一杯でね」 BuzzFeed Newsの取材にそう語るのは、鈴木賀子さん(82)。東京大空襲で母親や姉を亡くし、孤児となった。 「空襲のあとも、生き残った姉と弟と一緒に暮らすことすらできなかったんですよ。どこにも、行くところはなかった。地獄そのものでしたよ」 日中戦争がはじまった翌年の、1938年に生まれた。幼少期を過ごしたのは、いまの東京都江東区、北砂という町だ。ガスタンクが近くにあったことをうっすら覚えていると話す通り、近くには大きな工場などもある住宅街だった。 運送業を営んでいたという父親を病気で亡くし、木造平家の長屋に母親とふたりの姉と弟と暮らした。裕福ではなかったが、下町らしい、ささやかで幸せな暮らしだった、と

    「私の戦争は、終わらなかった」戦災孤児が語る、終戦後の"地獄"
    hilda_i
    hilda_i 2020/08/16
    つらい。