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ブックマーク / blog.goo.ne.jp/be-toven (2)

  • さくら貝の歌 - カームラサンの奥之院興廃記

    もしも今、どこかからアンケート用紙が来て、日語でうたわれた作品の中でいちばん好きな歌をひとつ挙げてください、と訊かれたら、きっとすごく迷うと思うのですが、たぶん『さくら貝の歌』と答えるかもしれないと思います。 さくら貝の歌 作詞土屋花情 作曲八洲秀章 うるはしき桜貝ひとつ 去りゆける君に捧げむ この貝は去年の浜辺に われひとり拾ひし貝よ (昭和18年完成) (昭和24年7月発表) この歌は、八洲氏が鎌倉の浜辺を散歩していて詠まれた一首、 わが恋の如く悲しさやさくら貝かたひらのみのさみしくありて を友人花情氏に見せ、これを基に付曲できる詩を、と求められて作られたものらしいです。完成が戦時中だったため、時局にそぐわないから、と作者たちによってすぐの発表は見送られ、戦後、ラヂオ歌謡の一曲として発表。たちまち日中で愛唱されるようになったそうです。 去年、とあるラヂオ番組のなかでの話だったと思う

    さくら貝の歌 - カームラサンの奥之院興廃記
  • 矢代秋雄氏のこと(メモ) - カームラサンの奥之院興廃記

    作曲家 矢代秋雄氏(1929 - 1976)に関するメモ。 『タイムカプセルに乗った芸大』 【東京音楽学校1949年~音校から芸大音楽学部へ~】 http://www.geidai.ac.jp/geidai-tuusin/timecapsule/o5.html 「(前略)学校制度の改革により、1949年5月になると音楽学校は美術学校と合併して、東京芸術大学に昇格することがすでに決定されていた。音楽学校の最後の校長は夏目漱石の高弟、小宮豊隆であった。彼は技術優先の音楽家が生まれること、つまり『内部を欠いた外部』がはびこることを恐れ、この学制改革を奇貨として、『一般教養』によってバランスをとるべきだと主張した。しかし歴史のサイクルは一巡りして、近年、戦後の「一般教養」体制は大学の重点化と共に崩壊した。作曲家の矢代秋雄は今から40年も前、学生たちに早くもこう諭していた。『音楽家も、よき社会人であ

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