開戦から4日後の昭和16年12月12日、内閣情報局は次のような発表を行った。 「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す。…大東亜秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味に非(あら)ず」 閣議決定に基づいたもので、あの戦争の日本での正式名称は「大東亜戦争」だった。 しかし戦後、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)がこの名称を使うことを禁じたため、マスコミも「太平洋戦争」と呼ぶようになる。禁止したのは「大東亜戦争」にアジアの新秩序建設や解放という日本側の「大義名分」を感じ取ったからだ。 当時のアジア、特に東南アジアの大部分は英国、フランス、オランダなど西欧列強や米国の植民地支配下にあった。そのアジアを解放するというのだから、米英などにとって実に都合の悪い「大義名分」だったのだ。 確かに開戦後すぐにアジアから欧米諸国を追い出し「解
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