●『モノたちの宇宙』(スティーヴン・シャヴィロ)の第三章「モノたちの宇宙」を読んで、ここでシャヴィロが「美(美的なもの)」と言っているものと、「唯物論では解決にならない」でハーマンが「形式」と言っているものが、ほとんど重なるように思った。要素(下方解体)によっても関係(上方解体)によっても還元し切れず、知的(認識的・現前的)にも実践的(使用的・道具関連的)にも把握し切ることのできない、モノのもつ余剰(オブジェクト性)の現れを、シャヴィロは「美」として、ハーマンは「形」として捉える。そしてこれは、ほぼ、ストラザーン=里見龍樹の「イメージ」とも重ねられるのではないか。存在論と美学と人類学が交差する地点が、ここにあるように思われる。 ただ、ハーマンが「上方解体(≒参照系の過剰)」によっても「下方解体(≒特異性の過剰)」によっても還元し切れない(零れ落ちる)というニュアンスなのに対して、シャヴィロ